蝦蟆のような船に軽々と跳びおりた娘は、もちろん、自分の蝶か鳥のような妙技に満足して「うつくしく水の上で莞爾」したのだが、もし何か言葉を言ったのだとすれば、それは、後に文庫の『増補 夢の遠近法』の自作解説で、短篇「月齢」について書いた言葉であったはずだ。莞爾とするさわやかな娘の背後には、四年前の大震災の時「嘗て満々と鱗浪を湛えた養魚場で、業火は水を焼き、魚を煙にしたのである。」という、現実の惨劇がたしかにあり、若き山尾悠子の小説には、酸鼻な結末が、書くという行為の欲望のままに、ためらいや羞恥心を小気味よくかなぐりすてて展開するのだった。
「たとえばここにはアナタガタハ少シモ私ニ似テイナイ、という若年の書き手の精一杯の主張があったりする訳である。」
後年の〈今〉から推しはかって口をついて出た言葉とはいえ、この昂然とした言いぐさが生意気に指さす「アナタガタ」とは何なのか(もしくは誰だれなのか)、あるいはたとえば「私ハ少シモアナタガタニ似テイナイ」という言い方とそれはどう違うのか。私ニ少シモ似テイナイアナタガタとは、私の小説について語る者たちであるようにも思えてくるというもので、もちろん「アナタガタ」は山尾悠子の小説にとって幾つも存在する誕生の地(影響とも引用とも呼ばれる)である本の空間の言葉の作者たちのことではない。
文章を書くことなど、「誰かが私に言ったのだ/世界は言葉でできていると」(「遠近法・補遺」)という言葉を追認することにすぎないではないか?
書く者たちは、当然のことながら書くよりもずっと多くのものを読んでいるので、読者である私たちは、何冊もの本、何人もの作者の言葉でできた世界の影を一冊の本の背後に見ることになる。
読んだ本の分量ばかりを誇っているとしか見えない愚挙や、見当外れの本と結びつけてしまうことで、かえって作品世界をせばめるというあやまちを人は常におかしがちなのだが、たとえば、『山尾悠子作品集成』(国書刊行会)の懇切な解説者(石堂藍)は、山尾の『仮面物語』を石川淳の『狂風記』と比べて朝日新聞の文芸時評(一九八〇年三月二十五日夕刊)で評した井上ひさしの文章(「これは〈たましいの顔〉を彫る才能を持つ善助という若者の(略)転身の物語である」)を引用している。私見によればこの仮面を彫る男には、むしろ国枝史郎の『神州纐纈城』の女の面作師月子のおもかげが浮かびあがるのであり、作中、体をきよめるために水を浴びる月子のおもかげは、むろんギリシア神話の水浴するダイアナに決っている。
幻想を眼に見える映像として実際に見たことがあるのかもしれないと、ヘルダーリンやネルヴァルのように思わせる詩人は存在するが、たいていの者たちはそうした狂気や幻想を「本」によって経験し、言葉の性格上、増殖する生命を生きることになるので、忘れかけていた記憶の水面下の柔らかな泥濘のような層から浮かびあがるものに読書の中で何度も出あうことになる。
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