この言葉についてはまた後ほど立ち返ることにして、まずは、アーレントの『アウグスティヌスの愛の概念』(千葉真訳、みすず書房、二〇一二年)における「愛」についての論述を見ていきましょう。アーレントは次のように述べています。「『愛』caritasと『欲望』cupiditasは、それぞれの追求する対象によって互いに区別されるのであり、追求の仕方そのものによって区別されるのではない」。
ラテン語には愛や欲求を意味する単語が結構たくさんあります。アウグスティヌスは、それをうまく区別しながら議論を組み立てていて、caritasとcupiditasは代表的なものなんです。caritasはキリスト教的な愛ですね。それに対して欲望cupiditasとは、特にこの世的なものを自分のものにすることを意味する単語だと言います。
若松 愛と欲望について、アーレントは、愛は「善きもの」を希求すると言います。さらに愛は、「善きもの」だけでなく、永遠なるものと人間を結ぶ、とも書いています。一方で、欲望は時限的なもの、永遠ならざるものを求めていくといいますね。
山本 さらに彼女は、「人間とは、その人が追い求めるものにほかならない」とも言います。「『欲望の人』は、自らの『欲望』そのものによって消えゆく運命へと定められるが、他方『愛』は、追求される『永遠性』の故に、自ら永遠なるものとなる」とも。儚いもの、この世的なものを欲望する人は、自分自身が儚い存在であることになってしまうわけです。
欲望=クピディタスが軸になっている人は、本当に求めるべきもの、探究すべきものを見失って、その代わりに雑多な、この世的なものにとらわれる。それを「好奇心(curiositas)」とアウグスティヌスは呼びます。現代では「好奇心」はよいものと言われることが多いのですが、キリスト教哲学、アウグスティヌス以来の伝統では、「好奇心」はよからぬものなのです。
この「好奇心」は、世界への従属が言わば習慣化した状態を表わすと同時に、他方「自己自身から」分離して生き、自己自身を回避して生きようとする人間的なものに固有の不確かさと虚しさを示すものにほかならない。自己自身の前でのこのような逃避に対して、アウグスティヌスは、「“自己探求”」を対峙させた。(『アウグスティヌスの愛の概念』)
(十一月四日、Zoomにて収録)
わかまつ・えいすけ 東京工業大学リベラルアーツ研究教育院教授・批評家。1968年生まれ。『小林秀雄 美しい花』で角川財団学芸賞、蓮如賞受賞。『霧の彼方 須賀敦子』『読書のちから』(近刊)など著書多数。
やまもと・よしひさ 東京大学大学院総合文化研究科教授。1973年生まれ。専門は哲学・倫理学(西洋中世哲学・イスラーム哲学)、キリスト教学。『トマス・アクィナス 理性と神秘』(岩波新書)でサントリー学芸賞受賞。
この続きは、「文學界」1月号に全文掲載されています。
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