では、この時の沢村の球速はいったいどの程度だったのか。映像に残された沢村の投球はわずか一球だけで、フォームの全貌は確認できるが、投じられたボールはほとんど映っていない。
投手の球速を、投球の際の腰の移動速度と利き腕の移動速度の比から推定するという独特の手法を開発した中京大学スポーツ科学部の湯浅景元教授は、同じ番組の中で沢村の投球映像をコンピューター解析して、その比率を五・三八と算出している。
この数値は、百三十キロ台後半のストレートを投げる現代の平均的大学生投手の数値である四・〇をはるかに上回り、百五十キロ前後の速球を投げる現代のプロ野球のエース級の五・〇をも凌駕し、日本最速投手である大谷翔平の五・四一に近いという。
この結果から、湯浅教授は、映像に映る沢村が投じた球の速度を百五十キロから百五十キロ台後半と推測した上で、
「今のスポーツ科学から見ても理にかなった投球をしていること自体、私には驚きです」
と語っている。
湯浅教授によるこの検証とは別に、NHKのスタジオでは誰も指摘していなかった事実を私は知っていた。
沢村の投球映像が撮られたのは、有名な洲崎三連戦の三戦目の終盤だという。であれば、日時は一九三六年十二月十一日の夕刻。朝から氷雨が降ったというこの日の東京の気温は零度に近く、現在の江東区新砂の埋め立て地にあった洲崎球場には海からの寒風が吹きつけ、足元はぬかるんでいたはずだ。沢村は三連投の三戦目。肩を痛め、前夜は冷やした馬肉を右肩に貼り付けて夜通し冷やし、肩の痛みに耐えながらの投球だった。
沢村といえば、左足を顔の高さまで上げる華麗、かつ豪快なフォームだったと伝えられているが、映像の沢村は左足をあまり上げていない。むしろ、クイックモーションのようにすり足気味に低い位置で左足を前方に移動させている。三連投の疲労に加え、肩に痛みがあり、気温を含めたコンディションが最悪だったからだろう。
その悪条件の中で、この投球――。休養十分の沢村が、気象条件のよいときに、左足を高々と上げた本来のフォームから全力投球したら、いったいどれだけ速いボールを投げたのだろう。
いち野球ファンとして、それが知りたくて、私は沢村栄治を訪ねる旅に出たのである。
尚、本書の執筆にあたって、巻末に掲載した資料を参考としたが、そのなかでも、巨人軍のビジネスマネジャーとして長く沢村の側にあった鈴木惣太郎氏の著書『不滅の大投手 沢村栄治』(恒文社)、職業野球創設の立役者である正力松太郎の生涯を描いた佐野眞一氏の著書『巨怪伝』(文春文庫)、昭和初期の日本野球に関する公式記録をまとめた大和球士氏の労作『真説日本野球史 昭和篇』(ベースボール・マガジン社)に、戦前の職業野球に関する記述の多くを依っていることをあらかじめお断りしたい。
(「はじめに」より)