したがって、小林が政治というものをどう見ていたのかを探ること、彼の作品を政治という観点から解釈し直してみることは、非常に興味深い作業となるであろう。
もちろん、小林は、政治学の理論体系を残したわけではなく、彼の政治に関する見解は、随筆や講演の中で断片的にその顔をのぞかせているに過ぎない。だが、そうした言葉の断片をつなぎ合わせれば、考古学者が発掘した破片から古代の土器を再現するかのように、小林の政治学の姿をつかむことができるのではないか。そして、この新たな試みは、小林秀雄に対する従来のイメージを変えるだろうし、あるいは、政治というものに対する我々の理解を改めるだろう。そういう予感が私にはある。
もっとも、これまで、小林秀雄の政治学に着目した者がいなかったというわけではない。
例えば、戦後日本を代表する政治学者と言うべき丸山眞男は、『日本の思想』の中で、小林秀雄の政治思想を批判的にとり上げている。
丸山は、『日本の思想』において、日本の思想的伝統を「理論信仰」と「実感信仰」という両極端の悪循環として描いた。「理論信仰」とは抽象的な理論を無批判に受け入れ、物神化する精神のことであり、「実感信仰」とは逆にあらゆる抽象的思考を拒否し、日常的感覚の世界のみを絶対視する姿勢のことであった。その際、丸山が「実感信仰」の極限形態として例に出したのが、他ならぬ小林秀雄であったのである。
丸山の解釈によれば、小林は、「理論信仰」を批判するにとどまらず、一切の理論化や抽象化を否認し、挙句の果てに、ありのままの現実をいかなる理論も妥当しえないものとして絶対視するに至った。しかし、このような形で理論を退け、現実を絶対視することは、「直観」や「賭け」といった非合理的な政治を無批判に是認する姿勢へとつながる。この姿勢というのは、政治の決断を規範や論理に優越させる「決断主義」に他ならない。決断主義は、ファシズムのイデオロギーである。
丸山は、小林の政治学を、日本の伝統的思想の「実感信仰」から派生した決断主義として解釈しただけではなく、それを日本的なファシズムの源泉だと暗示した。「絶対絶命の決断を原理化した時、彼はカール・シュミットにではなくて、『葉隠』と宮本武蔵の世界に行きついたのであった(※4)」。
※4 丸山眞男『日本の思想』(岩波新書)、1961年、P133。
小林がマルクスを深く理解していたことを証明した亀井秀雄もまた、丸山とは多少違った文脈ではあるが、小林の政治学を批判している。
亀井の解釈によれば、戦時中の小林は、戦争という恐るべき現実を直に経験している一般の生活者たちを発見した。そして、戦争という物質的な運動に対して、彼らが日常の物質的な活動が育んだ智慧によって対処するものと期待した。しかし、小林の念頭には、生活者は戦争を支持していたのか否かという疑問や、戦争によって生活者の将来はどうなるかという憂慮がまったくなかった。小林が抱いていたのは生活者の実像ではなく、美化されたイメージに過ぎなかったのだ。
亀井は、現在の事態に全力で対処する「決断主義」が小林の魅力ではあるとしつつも、こう指摘する。「だが現在の事態に対する全的な責任意識がある一歩を踏みこえてしまうとき、結局それは、遠き未来のことを慮っておく生活者的想像力を欠いた無責任な行動主義へと変質してしまう、その危険を孕んでいたこともまた否定できない(※5)」。
※5 亀井秀雄『小林秀雄論』(塙書房)、1972年、P276。
亀井は、小林の政治に対する姿勢について、丸山よりも好意的ではあるが、それでもやはり、そこに決断主義を見出し、批判するのである。
これに対して、山本七平は『小林秀雄の流儀』の一章を小林の政治観に充てているが、山本はそれを決断主義とは解釈していない。もっとも、山本が参照したのは、「私の人生観」「政治と文学」「プラトンの『国家』」「ヒットラアと悪魔」「『プルターク英雄伝』」など、ほとんどが戦後の講演や随筆であった。これらを読み直した山本は、「政治と文学」の最後の一節である「政治は、私達の衣食住の管理や合理化に関する実務と技術との道に立還るべきだ」という言葉に、小林の政治観を集約させている(※6)。
※6 山本七平『小林秀雄の流儀』(文春学藝ライブラリー)、2015年。
最近では、適菜収が『小林秀雄の警告――近代はなぜ暴走したのか?』の中で、小林の政治思想を「保守」として位置づけている。適菜によれば、保守とは、イデオロギーを警戒し、常識を取り戻そうとする姿勢である。「彼ら[注:保守主義者]は常に疑い、思考停止を戒める。安易な解決策に飛びつかず、矛盾を矛盾のまま抱え込む。人間社会という複雑なものについて考え続ける。保守の基盤は歴史や現実であり、そこから生まれる『常識』である(※7)」。
※7 適菜収『小林秀雄の警告――近代はなぜ暴走したのか?』(講談社+α新書)、2018年、P118。
このように、小林秀雄の政治学については様々な見方が示されてきたのであるが、いずれの理解が正しいのであろうか。
結論を先取りすれば、本書における解釈は、山本七平と適菜収のそれに近い。
ただ、本書が他の小林秀雄論と際立って異なるのは、小林の政治学に焦点を集中させている点である。そうすることによって、小林の政治学が初期の「様々なる意匠」から晩年の「本居宣長」までほぼ一貫しており、かつ、彼の言語観、歴史観、芸術観そして人間観とも見事に整合していたことが明らかとなるであろう。
本書によって、政治嫌いの文学者という従来の小林秀雄のイメージは一新されるであろう。そして、多くの読者は、彼の意外な相貌を知って驚くであろう。
少なくとも、私は大変驚いた。
(「序」より)
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