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古希に“南木物語”を振り返る――文庫版あとがきとしての独白

古希に“南木物語”を振り返る――文庫版あとがきとしての独白

南木 佳士

『小屋を燃す』(南木 佳士)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『小屋を燃す』(南木 佳士)

 いろんなひとから、またいつもの悪い冗談を、と言われましたが、この短篇集のハードカバーの帯の背に「南木物語の終章」と記したのは本音です。

 今年で七十歳になるのをきっかけにあらためてふりかえってみますと、ロッククライミングや競泳、研究者、電車の運転士など、はじめからできそうもないことには首を突っ込まないけれど、なんとかなるんじゃないか、と直感した分野には臆面もなく足を踏み入れてきた人生だったような気がします。

 これまでに何度も書いてきましたが、上州の山村で生まれ、小学校の教師だった母親に三歳のときに先立たれ、母方の祖母に育てられました。山の斜面に建つ家の向かいには数万年前から浅間山の崩落で堆積してきたとされる乾いた茶色の土が川で削られた断崖があり、庭で凧を揚げると目の前の高さにある草軽電鉄の架線にひっかかりました。生まれたときにはすでに他界していた祖父も運転や整備にたずさわったというアメリカ製のトロッコを改造した電車が一両か二両の客車や貨車を曳いてゆるゆると走っていました。錆びたレールを枕木に留める太い釘は表面がこげ茶色に腐食し、根気よく石で左右に叩いていると子供の力でも抜けました。

 その釘で家の脇に放置された古い石臼を割るべく、毎日、夕方になると金鎚で打っていました。灰色の石の表面にわずかな溝が穿たれたところで飽きてしまい、こういう単調な仕事は向かないのだな、と子供心に悟ったものです。ただ、金属音が谷間に響き、音の発信源としてのおのれの存在が村人に知られているのかもしれない、との勝手な思い込みにはあまやかな快感がありました。

 遊びから家にもどって祖母がいないと、おばあさんがいねえ、と庭で泣いており、まあ、この子はどんなおとなになるだやあ、と隣家のおばさんを嘆かせる脆弱そのものの子でした。

 婿養子の父は県道をはさんだ斜面のすぐ上の家の次男でしたが、戦争中に肺結核を発病し、通信兵として派遣されていたパラオ諸島の戦線から戻され、高崎市の陸軍病院に入院し、胸郭成形手術を受けていました。当時は抗結核薬がなかった時代で、肋骨を切り取って肺をつぶすこの手術だけで結核菌の排出を止めるのは困難だったはずです。後年、胸郭成形手術の執刀件数では日本一だった老医師に直接たずねてみる機会がありましたが、効果についてはよくわかっていなかったんですよ、との正直な回答がもらえました。結婚してから数年で母が肺結核を発病したのは理屈っぽいだけでひ弱な婿が持ち込んだ病原菌のせいだ、と祖母は批判的な口調で孫に語り聞かせていましたが、おおむね正しい主張だったと思われます。

 母は夏休み前に発病し、前橋市の県立保養所に入っていましたが、翌年の春に他界しました。教壇に立っていた教師が肺結核を発病したことによる周囲への影響は大きかったはずですが、その件に関する話題は耳に入ってきたことがありません。まわりが気をつかってくれたのか、あるいは、結核がいまよりもずっとありふれた病気だったのか、よくわかりません。

 一日晴れたと思うと又今日も雨、いやですね。
 お手紙ありがとうございました.四松のみなさん元気
 にやっていますとの事安心いたしました。おかげさま
 で私もしごく元気安静時間のほかは折りがみをし
 たりボール紙でいろ/\こしらえたり元気
 になってから又勝恵ちゃん達と楽しく勉強
 出来ますように習って居ります.御安心
 下さい。一学期もいよいよ残り少なになり
 ました 楽しい夏休みがむかえられますよう
 一生懸命勉強して下さい.部屋にさしてあるきく
 の花です やさしいよいこになって下さい.お父さんお母さんによろしく
 さよなら

文春文庫
小屋を燃す
南木佳士

定価:726円(税込)発売日:2021年04月06日

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