御物とは、代々の天皇が身近に置いて愛でられた、絵画や書跡から刀剣にまで及ぶ美術・工藝品のことである。この御物中に「道誉一文字」と名付けられた太刀がある。長さ二尺六寸四分(約八十センチ)、反り一寸二分(約三・六センチ)、華やかな丁子乱れの豪壮な造り込みで、昭和三年十月、東北地方行幸の折盛岡において、最後の南部藩主であった利恭の次男で、第四十三代当主である南部利淳から昭和天皇に献上された一刀である。誰が名づけたかは不明であるが、付属の折紙に「道誉一文字 正真 長さ貮尺六寸四分有之 代金子百枚 貞享元年子極月三日 本阿(花押)」とあり、本阿弥光常による極めである。折紙とは、刀剣の研磨と鑑定を家業とした本阿弥家が発行する、刀剣の鑑定書である。
この太刀「道誉一文字」は、刀剣の名物を収載した「享保名物帳」に見えるが、その記載は「昔佐々木道誉老所持 貞享元極」とあるばかりで、詳しい説明はない。
名物という呼称は、その物自体が名品であることに加えて、伝来の心を尊ぶ態度をも示すのであろう。足利将軍家の「東山御物」に始まり、茶の湯道具がその代表的なものといえる。茶器においては高名の茶人の所有がその価値を上げ、織田信長が戦功を賞するのに知行地に代えて名物茶器を与えたところから、その世俗的価値はさらに高まったといえよう。
皇室と公家、将軍と大名とを問わず、刀剣は頻繁に贈答が繰り返されてきた歴史を持っている。武士の表道具であった日本刀の名物を収載して、時の将軍徳川吉宗に進めたのが「享保名物帳」である。
当時(享保名物帳撰進の時 引用者註)は備前池田家(松平伊与守綱政)の所有であったが、鞘書に「道誉一文字御刀 尾張中納言綱誠卿ヨリ被進」と記されているので、以前は尾張徳川家に所蔵されていたものである。しかしそれ以前の来歴は全く判らず、あるいは六角、京極など佐々木道誉の子孫の手にあったものか、想像以外にない。
南北朝時代には物造などと称する長寸奇抜な太刀が流行し、作風も大きく変化したのであるが、婆沙羅といわれた道誉が華やかな作風ではあるが、鎌倉時代の尋常な太刀を佩いたというのは意外な感じをうける。この作風は「一」銘ではあるが、一般の小ずんだ刃文ではなく、大模様で華やかな丁子刃で高低が少なく蛙子丁子が交じるなど、長船光忠などにも繋がっていくものであるように思われる。鎌倉時代中期の豪壮な太刀姿の典型作といえよう。(『御物』小笠原信夫 毎日新聞社)
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