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滅びの道を歩む金王朝、揺らぐ世界――北朝鮮の現在の権力構造、独裁体制の行方とは。

出典 : #文春新書
ジャンル : #ノンフィクション

金正恩と金与正

牧野愛博

金正恩と金与正

牧野愛博

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『金正恩と金与正』(牧野 愛博)

「苦難の行軍」を生き抜いた北朝鮮

 あの異様な体験をした当時、朝鮮半島は93年から94年にかけての第1次核危機が去った時期にあたっていた。米国のビル・クリントン政権が一時、北朝鮮・寧辺核関連施設への爆撃を検討したこともあり、日本では朝鮮半島有事の際に自衛隊に何ができるのかを検討する動きが始まっていた。それでも、北朝鮮はまだ、核兵器に転用できるプルトニウムを抽出した程度の段階にあたり、北朝鮮による核攻撃が差し迫っているという緊張感はなかった。弾道ミサイルについても、北朝鮮はすでにノドン中距離ミサイルの試射に成功していたが、搭載すべき核爆弾も、ミサイルを自由に動かせる移動式発射台(TEL)も確認されていなかった。

 そればかりか、私が訪朝した当時は、北朝鮮で数百万人が死亡したともされる「苦難の行軍」の時期にあたり、西側諸国では、「いつか北朝鮮は崩壊するだろう」という楽観的な声も流れていた。

 だが、北朝鮮は死ななかった。北朝鮮は94年秋に結んだ米朝枠組み合意で、核開発を凍結すると約束していたが、裏ではウラン濃縮方式による核開発を続けた。2002年10月、ジェームズ・ケリー国務次官補らの訪朝でウラン濃縮の事実が公になった。米朝枠組み合意は吹き飛んだが、今度は米朝に日韓中ロを加えた6者協議に場を移し、北朝鮮は粘り強く国際社会に対峙した。当時のジョージ・W・ブッシュ政権は「レッドライン(踏み越えてはならない線)」をちらつかせながら牽制したが、北朝鮮は06年10月、ついに核実験に踏み切った。以来、17年9月まで北朝鮮は6度にわたる核実験を行った。中国から「伐採した樹木の運搬用」だと偽って移動式発射台も入手。度重なるミサイル発射実験で、金正恩朝鮮労働党委員長(現・総書記)は17年11月、大陸間弾道ミサイル(ICBM)の完成に伴い、「核戦力の完成」を宣言した。

 今や、北朝鮮が保有する弾道ミサイルは1千発以上。日本を射程に収める中距離弾道ミサイルも200発程度が存在するとみられている。移動式発射台も200台前後保有している。日米韓の情報衛星や無人機、高高度偵察機を総動員しても、北朝鮮の移動式発射台すべての動きを事前に把握することはできない。北朝鮮は、日米韓による弾道ミサイル防衛を破る研究も進めてきた。一度に複数のミサイルを発射して相手の防御網を突破する「飽和攻撃」、通常の発射角度よりも高く打ち上げることで、高速度で落下させる「ロフテッド発射」、19年春には、ミサイルの軌道を不規則に変える能力がある短距離弾道ミサイル「KN23」の発射実験にも成功した。日本政府は2020年版の防衛白書で、北朝鮮は日本を核攻撃する能力を持っていると初めて明言した。日本政府が守るべき命は、拉致被害者だけではなく全国民にその対象が広がったと言っても過言ではない。

 もちろん、北朝鮮も相応の代価を支払った。

絶対服従から面従腹背へ

「苦難の行軍」時代、平壌市民や一部のエリートを除き、建国以来続けてきた配給制度が崩壊した。市民は食糧や日用品を安い国定価格で手に入れることができなくなり、好むと好まざるとにかかわらず、市場経済が発達した。それまでは、より条件の良い配給制度の恩恵に浴するため、人々は忠誠競争を繰り広げた。しかし、配給制度がなくなったことで、忠誠心を発揮しても自分の生活が良くなるわけでなく、代わりに物質主義や拝金主義が広がった。金正日時代は、それでも時々、市場で働く商人の資格を厳しくしたり、貨幣改革を行ったりして、市場経済の縮小を目指した。だが、金正恩時代になると、少なくとも小売業や飲食業などの民間部門はほぼ市場経済化した。市場経済で生きていく人々にとって価値があるのはカネであり、最高指導者ではない。10年代に入ると携帯電話も急速に普及し、人々には様々な情報が入るようになった。北朝鮮が核・ミサイル開発を続けたために、国際社会の制裁は続き、生活が良くなるきっかけもつかめない。いくら、北朝鮮当局が「米帝国主義との闘争」「最高指導者による善政」などと宣伝扇動しても、市民は信じなくなっている。北朝鮮市民は元々、自分の国が「地上の楽園」ではないことを知っていたが、最近では永遠に「楽園」にはならないだろうとも思っている。ひたすら、自分たちの日々の暮らしを守るだけで精いっぱいであり、弾圧を避けるために当局に逆らいはしないが、同時に最高指導者に絶対の忠誠を尽くすこともなくなっている。

文春新書
金正恩と金与正
牧野愛博

定価:1,078円(税込)発売日:2021年06月18日

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