同調圧力、反日狩り、自粛警察、リベラルの暴走――現在日本に跋扈する「極論」を撃つ!
「アベ」依存の背景には、歴史が安易な記号に堕したことも無縁ではない。第二章「虚構の戦前回帰──歴史の教訓をアップデートする」では、左右ともども戦前を捉えそこねていることを指摘している。たいへん話題になった「軍歌を歌う幼稚園」森友学園の愛国教育を思い出していただきたい。あれは果たして戦前への回帰だったのだろうか。むしろ、戦前の二次創作であり、愛国のコスプレというべきではなかったか。そしてそれを称賛した保守派の言論人は、根本的に歴史を捉えそこねていたのではなかったか。
これに関連する拙稿「森友学園の愛国教育は、戦前だったら不敬罪!?」は、もっとも広く読まれたもののひとつである。どちらかというと、リベラル系で好評だったが、そのときすでに、単純な戦前回帰批判に釘を刺していた点にも注目してもらいたい。君が代を論ずるにもしかり、皇室を語るにもしかり。歴史の教訓は大切だが、使い方を誤ると、身内で盛り上がるだけのネタに堕してしまう。
このような問題意識をもてたのも、筆者がもともと戦時下のプロパガンダについて研究していたからにほかならない。第三章「プロパガンダの最前線へ──音楽から観光まで」では、政治と文化芸術が結びつく過程を古今東西の事例を通じて明らかにしている。それはまた、筆者が戦時下の音楽研究をベースとしながら、資料調査や現地取材を通じて、だんだんとプロパガンダ全般にテーマを広げていく過程でもあった。「軍歌はナショナリズムをどう表現してきたか」から「中国レッドツーリズム体験紀行」までがそれにあたる。第一章を現代編とすれば、第二章と第三章はいわば過去編だ。
筆者が今日のような考えにいたったのは、中高生のころより総合雑誌を愛読していたこともあるけれども、また同時に、ゲーマー世代の軍事マニアとして、戦争ゲームに親しんでいたことも大きい。オタク的感性は、しばしばネット右翼と親和性が高いと無根拠に指摘される。だが、本当にそうだろうか。別の可能性もあるのではないか。評論は、評論家の人生・人格とセットで読まれなければならない。やや異例のサブカルチャー論「戦争ゲームはわれわれに何をもたらすか」を付論として収録したゆえんもここにある。
そして最後の第四章「総合知を復興せよ──健全な中間をめざして」では、未来に向けてわれわれがいかにあるべきかが論じられている。論壇が混乱しているからといって、「アベ」的な記号の再来を求めるのは幼稚であろう。冷笑主義、どっちもどっち論などと批判を受けようとも、「それでもわれわれが『右でも左でもない』をめざすべき理由」「評論家と専門家の適切な関係性を回復しなければならない」で指摘しているように、健全な中間を地道に追求していくしかない。
本書に収めた論考はほとんど時評なので、現在からみれば、正鵠を射ていないところもないではない。それをあえて隠すつもりはない。ただ、中間と総合を大切にしながら、歴史を道しるべとすれば、それほど大きく的を外さないこともまたわかってもらえるはずだ。
そのため、加筆修正は最小限にとどめ、文体の「~である」「~です、~ます」の混在もあえて厭わなかった。各文の末尾に初出の年月をつけておいたので、参考にしていただきたい。なお、もともと個別に発表された文章なので、どこから読んでもらってもかまわない。イデオロギーや権威によらず、われわれに抜きがたく備わっている総合知への志向を大切にしながら、この世界と社会をまじめに考えようと日々努めている市井のひとびとの、考えるヒントともなれば幸いである。
(「はじめに」より)
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