「権威は消えたが常識は残った」。山本七平はそう書く。
私はこれを体感した最後の世代かもしれない。小学校二年生で終戦を迎えたからである。新入生で体験したことと、三年生以降に体験したことが、さまざまな面でまったく違ってしまった。そうかといって、変わらないことは、まったく変わらなかった。私はまだ子どもだったが、山本七平の世代はその変化の只中を成人として生きた。その変化を理性的に分析し、その意義を意識的に書き残そうとした。そうした著作家の代表が山本七平だ。そういってもいいであろう。
常識とは、わざわざ説明しなくても、すでに一般に了解されているものとして扱われる認識や行動規範を指す。ある講演の後で、若い人から「常識とはなんですか」と詰問されたことがある。私はそれを予期していた。その時は常識とはなにかを考えてもらいたくて、あえて常識という言葉を使ったからである。「ある」ようでないが、ないようで「ある」。それが常識というものだ。そう思っている人もあると思う。
山本七平のいう常識とはなんだろうか。「権威は消えたが常識は残った」をひたすら文字通りとれば、戦前と戦後で変わったものが権威であり、変わらなかったものが常識だ、といいたくなるかもしれない。文科系の議論の厄介なところはこれだなあ。いつも私はそう思う。権威とか常識という、言葉の概念規定がしばしば先行してしまう。でも上記の発言の背景ははるかに具体的である。それは山本七平の著作をいくつか読めば、納得しやすいと思う。
常識は一般に了解されている。ただしこれには意識的な場合と、無意識の場合がある。とくに行動規範の場合には「身につく」ことが多いので、ほぼ無意識になってしまう。幼時の躾が典型で、これを身を美しくと書くのは国字である。
常識をあえて意識するのはどういう場合だろうか。上記の若者の場合なら、当然と思いつつなにかをいうか、するかして、「そんな非常識な」と自分がとがめられたか、友人がそういう目に会うのを経験したのではないかと思う。つまり「常識に外れた」わけで、その場合にはじめて常識を意識することになる。