同調圧力、反日狩り、自粛警察、リベラルの暴走――現在日本に跋扈する「極論」を撃つ!
これはかならずしも悲劇ではなかった。一九八四年生まれの筆者は、アカデミズムが就職難に喘ぎ、ジャーナリズムが出版不況に悩む時代に、その文筆活動をスタートさせた。上の世代のように、割のいい雑誌連載で生活を安定させられなかったし、下の世代のように、ブログ論壇で注目を集めて華々しくデビューもできなかった。それでも、大きな組織に属さずとも、またテレビなど大メディアのレギュラーをもたずとも、目下の生活に困らないぐらいに歴史家・評論家として独り立ちできたのは、戦時下の音楽という元来の興味関心を、SNS時代の到来にあわせて、音楽史全般、プロパガンダ、近現代史、社会評論と、徐々に拡張できたからだった。
いうなれば荒涼たるSNS社会は、生活者に届く知を再構築しようとする筆者にとって、このうえない鍛錬場だったのである。本書はその点で、叩き上げの議論の集積であり、どこか現実離れした主義主張──共産主義でも、実証主義でも、フェミニズムでも、なんでもいいが──にもとづいて俯瞰的に世の中を斬ってみせる、ありがちな評論集ではない。むしろ穏当な落としどころの模索を旨としており、主題のひとつであるプロパガンダでさえ、危険だ、洗脳されると過度に煽っておらず、あくまで思考実験の材料として言及しているにすぎない。
さらに付け加えれば、かまびすしい専門主義の謳歌も逆説的に追い風となった。近年、専門知の細分化と厳密化が進み、評論家を粗雑な素人として排斥する風潮が強まりつつある。とりわけ歴史の分野ではそうだ。だが、時間も能力も限りある人間は、すべてのことについて専門的に取り組むことができない。結局、世の中を知り、語ろうとすると、あるていどざっくりした全体の見取り図を手がかりにせずにはおれない(でなければ、選挙の投票ひとつおぼつかない)。
だからこそ、一部の神経質な専門家が作家や解説者、エッセイストなどの粗探しに汲々としようとも、けっしてそのような仕事への需要はなくならないし、良質な総合知を鍛えなければ、かえってデタラメな全体像が横行してしまう。
今日本当に必要なのは、専門原理主義とデタラメの中間、つまり総合知を模索することではないか。そしてそれこそ、評論家本来の領分なのである。かつて総合誌華やかなりしころ、筆者のような歴史家や評論家はけっして珍しくなかった。今日のメディア状況のもとでもそれが可能であることを、いやそれどころか強く求められていることを、ここに高らかに訴えたい。筆者は論壇に総合と中間を取り戻したいと切に願っている。
本書の構成もまた、以上のような問題意識で貫かれている。
第一章「ふたつの同調圧力に抗って──五輪とコロナ自粛」では、そのタイトルどおり、まさに現在進行中の問題をいかに考えるべきかが論じられている。コロナ禍の劈頭、本来冷静で俯瞰的であるべき日本の論壇も混迷をきわめた。私権制限に慎重であるはずのリベラル派が、一転して強権的なロックダウンの支持に回ったのはその歓迎すべからざる一例だった。
なぜそんなことになってしまったのか。いうまでもなく、そこには安倍晋三の存在があった。異例の長期政権は、「親アベ」ならば保守、「反アベ」ならばリベラルというあまりに単純な対立図式を生み出し、「アベがAというならば、われわれは反Aだ」式の思考停止をもたらしたのである(「空虚な鏡像としての首相」)。
そのため安倍の退陣後、リベラル派も保守派も座標軸を失い、もがき苦しんでいる(「日本学術会議問題は『反スガ』で解決するのか」「日本の保守論壇はなぜアメリカ大統領選挙をめぐって分裂したのか」)。筆者はもとより、あらゆる同調圧力にも、それを強化するSNS社会にも、抗うべきだと考えている(「参加の同調圧力から自粛の同調圧力へ」「『SNS社会=超空気支配社会』の誕生」)。
-
『赤毛のアン論』松本侑子・著
ただいまこちらの本をプレゼントしております。奮ってご応募ください。
応募期間 2024/11/20~2024/11/28 賞品 『赤毛のアン論』松本侑子・著 5名様 ※プレゼントの応募には、本の話メールマガジンの登録が必要です。