光について、書いてみようと思います。
この場所に生まれたから、この環境に育ったから。ある人はそれを言い訳にし、ある人はそれを振り払おうとする。しかし誰もが大きな流れの中に回収され、結局抜け出せない……その「どうにもならなさ」が、全体を覆う陰鬱なムードを形作っている。『悪人』を読んで最初に抱いたのは、そんな感覚でした。
もし発売直後に読んでいたら、まったく違った感想を抱いたことでしょう。単行本の刊行された二〇〇七年、ぼくは十六歳の少年でした。地方に住み、ここではないどこかに焦がれていたあのころ……。当時手に取っていたら、ものすごくリアルで同時代的な物語として受け止めたかもしれません。けれど、時が流れ、三十歳になった今、もっとも強く感じたのは、鈍色のトーンで覆われた世界にごくうっすらと射し込む、光の存在でした。
ここから先は内容について言及してしまうので、本編を未読の方はぜひ先にそちらをお読みいただければと思います。
陰鬱な世界と、そこに射す光。
まずは、作品全体の雰囲気について考えてみましょう。『悪人』では、心苦しくなるエピソードが多数描かれています。登場人物たちも決して一面的ではありません。たとえば、自分はこんなもんじゃないと思いながら、ハイレベルの男に取り入ろうとする佳乃。親の金で裕福に暮らし、周りを見下す増尾。増尾に複雑な思いを抱きながらも友人を続けている鶴田。誰もが心にもやを抱え、どこか苦しいと思いながら、現状を変えられずにいる。様々な人物が交錯していく中で、ぼくの心も次第に仄暗い色彩を帯びていきました。
中でも考えさせられたのが、主要人物である清水祐一の祖母・房枝さんが繰り返すフレーズ、「馬鹿にされてたまるか」。
慎ましやかな生活を送っていた彼女はある日、町の外からやってきた男たちに騙され、高額な商品を買う契約をさせられます。
クライマックス付近、それまで男たちの剣幕に何もできなかった彼女は、「馬鹿にされてたまるか」と己を奮い立たせ、毅然とした態度で立ち向かいます。懸命に生きる人がわずかな勇気を振り絞るシーンの、苦しさと爽快感がないまぜになっている描写が印象的でした。
けれど、しばらく噛み締めたのち、愕然としました。どこかすかっとした自分は、同時に心の中で「こいつらに罰がくだってほしい」と考えていたのだ、と気づいたからです。
もちろんエンタテイメントをどう楽しむかは自由だし、その醍醐味のひとつは、登場人物に感情移入をして、困難に打ち勝つのを見ることでもあるでしょう。だからこれは、ぼくの勝手な妄想、深読みにすぎません。けれど……タイトルの『悪人』とあわせて考えたとき、こう問いかけられているように感じたのです。
自分が誰かを罰して当然だと思っていませんか?
自分が馬鹿にされるのは嫌なのに、誰かは馬鹿にしてもいいのですか?
無論、その是非についてここで考えてみるつもりはありません。しかし、書かれた当時から様々な状況が変化した二〇二一年においても、この小説の内包する数多の問いはその鋭さをまったく損なっていない、ということはできると思います。
さて、ここまで見てきたように、この物語は陰鬱な雰囲気をたたえています。けれど一方で、ごくわずかな刹那、鈍色の世界に光が射す瞬間があるとも感じました。そしてぼくは、そこに強く惹かれたのです。光の具体的なイメージは――逃避行の果てに行き着く場所。
灯台です。
物語中盤、「どうしようもなさ」を抱えた女性・馬込光代は、出会い系サイトで清水祐一と知りあいます。「選り分けられたら、必ず悪いほうへ入れられてしまう」と思っていた光代は、その後偶然の連鎖により、バスジャック事件に巻き込まれるのを回避します。そして、「きっと生まれて初めて、良い方に選り分けられたのだ」と感じ、まだ会ってもいない祐一に想いを馳せます。
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