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光について

光について

文:斉藤 壮馬 (声優)

『悪人』(吉田 修一)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #小説

『悪人』(吉田 修一)

 彼の何がそう思わせたのか分からないが、彼とメールを交わしていると、あの日、あのバスに乗らなかった自分でいられた。何の確信もなかったが、ここで勇気を振り絞れば、もう二度とあのバスに乗らずに済むような気がした。

 光代は差し込む冬の日差しの中、昨夜最後に送られてきたメールを改めて読んだ。

〈じゃあ、明日、十一時に佐賀駅前で。おやすみ〉

 簡単な言葉だったが、キラキラと輝いて見えた。

 今日、これから私は彼の車でドライブする。灯台を見に行く。海に向かって立つ、美しい灯台を二人で見に行く。

 

 ここで、彼女の考え方が「正しい」だとか「よい」だとかいうつもりはまったくありません。けれど少なくともぼくは、光代の「どうしようもなさ」の日常に、ほんのひとひらの光が射したように感じたのです。

 それからふたりは旅に出ます。いつか必ず終わることがわかっている、かなしい逃避行に。

 祐一は秘密を抱えており、それをひた隠しにしています。一方光代は、かすかに見えた(ように思えた)光を――希望を探し求めます。

 

「ねぇ、今日はどっかに泊まって、明日、仕事さぼって二人でドライブせん?」と光代は言った。「だって私たち、まだ呼子の灯台も行ってないとよ。この前は、ほら、結局ずっとホテルにおったし」

 ずっと触れていた祐一の耳が、ゆっくりと熱を取り戻す。

 

 祐一もまた、ありえないとわかっていながら、淡い期待を抱いてしまいます。このまま光代といたら、何もかもなかったことになるんじゃないか。自分の罪から逃げきれるんじゃないか……

 けれど、それは叶わぬ夢。ふたりは逃避行の果てに、使われていない灯台へと落ち延びます。いずれ訪れる破滅を見ないようにしながら、彼らはひっそりと、かりそめの生活を営みはじめます。

 祐一の罪――それは、作中で描かれたとおり。けれど、それをいったい、誰が罰することができましょう?

 もちろん、彼は決して己の罪から逃げきることはできないし、それを擁護する気はまったくありません。ただ、善悪の判断とは別のところで、強く惹かれる描写があったことは事実です。物語終盤、ぼくのもっとも好きな場所を引いてみます。

 

 祐一は灯台で私を待っている。絶対に待っている。(略)そこへ行けば……、そこへ行きさえすれば、私を愛してくれる人がいる。そんな場所があっただろうか。もう三十年も生きてきて、そんな場所があっただろうか。私はそれを見つけたのだ。私はそこに向かっているのだ。

 

 作中では、逮捕された祐一のみならず、「被害者」である光代やその周辺にも、当事者ではない人々から様々な声が浴びせられます。罵倒、擁護、憶測、好奇……真実はどこにあるのか。そもそもそんなものは存在するのか。この小説は、ぼくたちに多くを問いかけます。

 あなたは、祐一や光代を「悪人」だと思いますか?

 それはなぜ?

「悪人」だったら、誰もが石を投げつけていいのでしょうか?

 二〇二一年現在、日本にはおよそ三〇〇〇基ほどの灯台があるそうです。それらはかつて、暗い海を進む船の道ゆきを照らしてくれる、かけがえのない存在でした。けれど時代の流れの中で、次第にその役目は変わってきているのかもしれません。

 それでも、とぼくは夢想します。たとえ使われなくなった灯台でも、誰も訪れなくなった灯台だったとしても……それは祐一と光代にとっては、ふたりを照らしてくれる、光そのものだったのではないか、と。

 彼らが夢見た生活は、すぐに消えてしまう幻のようなものだったかもしれない。祐一が犯した罪は、決して赦されざるものかもしれない。

 そうだとしても、彼らの水晶体を通して、網膜上に浮かび上がったものが虚像だと、刹那に見た光そのものが間違いなのだと、誰が否定できるでしょう。

 ……などと偉そうに書いてみたものの、答えはまだ、ぼくにもわかりません。次に触れる際にどう感じるのか、それに委ねてみようと決めました。

 たぶんまた、この場所に辿り着く日が来るはずだから。そのときにはきっと、今とは違うかたちで、ぼくの心は照らされることでしょう。あの灯台が、鈍色の世界の片隅で、祐一と光代をひっそりと照らしてくれたように。

 そしてまた、自分に問うのです。

「悪人」とは、なんだと思いますか?

 この小説を読んで、何を感じましたか?

 ねぇ? どうなんですか?

文春文庫
悪人
吉田修一

定価:990円(税込)発売日:2021年06月08日

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