灯台守は女にもてる。
三津田信三『白魔の塔』を読了して、私が最終的に理解したことはそれである。
長篇ミステリーの感想としてどうなのだそれは、と言われそうだが事実なのだから仕方ない。本書は『黒面の狐』(二〇一六年。現・文春文庫)に始まる物理波矢多シリーズの第二作である。単行本の奥付を見ると二〇一九年四月十五日刊行とある。
これは不思議な小説で、前半は迷路のなかを延々と彷徨っているかのような読み心地である。巻の半ばでようやく抜け出すことができるのだが、そこからの展開があまりに予想外すぎて、別種の惑乱がこみ上げてくる。これはなんだろう、自分はいったい何を見せられているのだろう、と。その疑問に対する回答が呈示されるや否や、瀑布の如き勢いで幕が引きずり降ろされ、一巻の終わりとなる。遊園地に例えると、巨大迷路のアトラクションから脱出したと思いきや、3D映像を流しながら爆走するジェットコースターに乗せられ、急停止したと思ったらそこが園の出口だった、というような具合。この感想を理解してもらうためには、まず物理波矢多シリーズについて知っていただく必要がある。
三津田作品では戦後から高度成長期前夜の物語として書かれている刀城言耶ものが有名だが、この連作も時代設定は重なっている。主人公の波矢多は満州(現・中国東北部)の建国大学から学徒出陣し、終戦を迎えた。
戦後になって彼は、旧体制が欺瞞に満ちていたことに絶望し、民主日本を築くために個人として尽力しようと考えた。まず働いたのは炭鉱である。石炭こそはすべての産業の基幹にあるものだから、鉱員となって働くのもいいだろうと考えたのだ。ところがそこで彼は連続変死事件に遭遇してしまう。寮に住む鉱員たちが同じような姿勢で次々に首を吊って死ぬ、という奇怪な事件である。
炭鉱に跋扈する〈黒面の狐〉の存在が囁かれ、物語は怪奇小説の様相を帯びるのだが、波矢多によって合理的な解決が導かれる。ミステリーとしての肝は、複数の人間にどのようにして同じような死に方をさせられるのか、しかも密室となった部屋で、という部分だ。死者が連続するという事件の姿と、事件現場が密室であるという不可能状況が謎の要といえる。
その続篇なのだから『白魔の塔』も同じようなミステリーだと思うではないか。しかも今回の舞台は灯台だという。なるほど奇妙な〈館〉として使うのか、謎を解くためには灯台の見取り図的な理解が必要なのかもしれないな、と予想するではないか。
違うのである。
まったく違う。『白魔の塔』は全然そういうミステリーではないのだ。
ではどういう小説か。〈黒面の狐〉事件のあと、抜井炭鉱を離れた物理波矢多は、学校に入り直して海上保安庁の航路標識看守になっていた。つまり灯台守である。あまりに極端な転身なので一瞬驚いてしまうが、読者のそうした戸惑いを見越したかのように、灯台守という職種の歴史が語られていく。これが非常に勉強になる。灯台とは航海の安全を守るために欠くべからざる存在だということが改めて理解できる。古今東西のミステリー作品において、ここまで灯台の知識が得られる作品はないだろう。なるほど、炭鉱が日本の製造業の基幹だとすれば、灯台は海運業の要であるわけだ。持ち場は変わっても炭鉱と同じ理想を追うことのできる職種なのである。
その波矢多が東北の巌栖地方にある轟ヶ崎にやってくる。最初の赴任地から転勤になったのだ。一刻も早く着任して務めを果たさなければ、と気は焦るが、灯台は彼が到着した漁港からはあまりに遠かった。逸る心を抑えて一泊し、英気を養ってから翌朝出発しようとしたものの、問題が起きてしまう。道案内を頼んだ地元の男が、約束を破って現れなかったのだ。一人で行くなんてとんでもない、と止める旅館の女将を振り切って波矢多は出発する。そして多くの読者が予想したとおり、慣れない森の中で迷ってしまう。
制止を聞かずに一人で山越えした旅人が山中で化物に遭遇するという怪談の形をこの展開はなぞっている。ご存じのとおり作者の三津田信三はミステリーと同様にホラーへの関心も強く、その源流の一つである民俗学の知識を多く蓄えている。三津田が創造した主人公の多くは怪異譚の収集家でもあるのだ。
波矢多が怪しいものを目撃したということが前段階で書かれる。初め彼が〈白い人〉として認識したものには後に〈しらもんこ〉という名称が与えられる。それらが予兆として、波矢多の心を脅かすのだ。曰く、「(注:抜井鉱山の)鯰音坑での予感が「嫌な」だったとすれば、九指岩を前にして感じたのは「厭な」ではなかったか」。
この厭忌の感覚がずっと続く。小説の前半はひたすら波矢多が山中で迷っている展開なのである。「厭だ、厭だ」と呻きながらひたすら主人公が彷徨を続けるさまが延々と描かれるので、前作とはプロットの種類がまったく異なることがわかる。通常のミステリーをこの作者はやるつもりがないのだ。そう理解した瞬間にぐんと期待値が上がるが、それを超えるものを三津田はぶつけてくる。第一部「守灯精神」は全体が巨大迷路だと言ってもいい。この小説は三部構成になっていて、全体が二十一の章に分かれているが、波矢多が森を脱し、灯台にたどり着くのは第七章の終わりのことなのである。なんと全体の三分の一迷いっぱなし。ここまで迷うか、物理波矢多。森とは君の人生の暗喩なのか。