それはともかく、灯台に到着した波矢多を何が待ち受けているのかというと、前述した〈しらもんこ〉にまつわる忌まわしい物語だ。化物が導く不可解な状況という意味では『黒面の狐』と共通項があるように見えるが、性質がまったく違うということはおわかりだろう。言うなれば第一部は森の怪談だったが、第二部では別種の民俗譚が骨組みとして当てはめられる。それが何なのかはネタばらしになるから書かないが、第一部に出てきた要素とも見事に合体して、他に類例のない不思議な状況を生み出すことになる。そして、そこで生じた謎、状況の不思議がミステリー的な合理精神で解釈される瞬間がやってくるのだ。
全体を説明するとこんな感じである。前半はとにかく物理波矢多がうろうろ迷っている。そして後半にも化物伝説。明かしてもいいのは、物語のどこかで「灯台守は女にもてる」という豆知識が得られるということだけだ。どうでもいい知識と思われるかもしれないが、最後まで読んでいただくとこれが作中で起きる出来事を解釈する上で重要な鍵になっていることがわかるはずである。いや、冗談ではなくて本当に。
三津田信三は小説の中で常に奇妙な状況を描く。それはホラーの読者からすれば恐怖の根源であり、ミステリー側から見れば解き明かすべき推理の対象となる。両義性を帯びた状況を作り出すことでホラーとミステリーという隣接ジャンルの隔壁を取り払い、それらが融合した作品を生み出すのだ。状況を支える仕掛けとしてさまざまなトリックを生み出してきた三津田だが、真価はそこではなく、プロットにこそあると私は考える。何で状況を作り出すか、ではなくて、どのようにして状況に導くか、が重要なのだ。
ミステリーとしての代表作である刀城言耶シリーズを注意して見ると、一つとして同じようなプロットはないことがわかる。一般的なミステリーの形式を最も踏襲しているのは第二長篇『凶鳥の如き忌むもの』(二〇〇六年。現・講談社文庫)で、いわゆる〈館〉ミステリーのそれに近い。小説全体で〈館〉の構造を表現するようなプロットなのだ。同じシリーズでも第五長篇『水魑の如き沈むもの』(二〇〇九年。同)では、空間ではなくて時間の方向に物語は拡大されていて、第三章「記憶」の章で戦中の出来事が語られることが後々重要な意味を持つ。シリーズ中最も巧緻な第六長篇『幽女の如き怨むもの』(二〇一二年。同)は再話の物語で、視点人物が変わって続く語りが謎の輪郭を描き出していく。
同一シリーズでもこの通りで、単発作品になると目次を見た段階から騙りの勝負は始まっている、と言わんばかりの構成が目を引く。たとえば近作『逢魔宿り』(二〇二〇年。KADOKAWA)や『そこに無い家に呼ばれる』(二〇二〇年。中央公論新社)などの諸作はホラーに分類される作品だが、作中に使われている技巧を説明しようとした場合、プロットに言及しないわけにはいかなくなる。
形なのだ。小説を読む者は、ただ中に入っていくのではない。物語の形を漠然と思い浮かべ、その中に個々の要素を配置することで展開を理解しようとする。これは意外などんでん返し、というような驚きも、小説全体の形が見えていなければありえないものだ。三津田の勝負は、その形をどう操作するかという点にある。読者が想起するであろう形、器を準備してしまう。その中に入り込んだ者は、三津田の掌の上にいるも同然だ。彼らは作者の思い通りに驚き、狙い通りに誤るだろう。ミステリーやホラーに関する三津田の知識がこういう点に発揮される。読者は何を見るとどのような展開を思い浮かべるかということが、この作者にはわかるのだ。
そう考えると、一見風変りな外見の『白魔の塔』こそ、実は最も三津田らしい作品なのではないか、とも思えてくる。本作で行われているのは、読者の不安という感情を操る実験だ。ミステリーは、不可解と不安という二つの感情を読者に催させる。謎がそこに存在することによって生じる不可解は、合理的な推理によって解消する。一方、不安のほうはこの物語がどこに自分を連れて行こうとしているかわからないという状況のために生じるのだが、これも解決がつけられることによって霧消する。この二つの感情が可能な限り長く持続するように設計されたのが『白魔の塔』という小説だ。ようやく全体の形が理解できたときにはもう物語の終わり。ちょっと待って、と言ってももうおしまい。ページを閉じたときには夢から強制的に目覚めさせられたような感覚が残る。それも作者は計算の内だろう。
本シリーズは、戦火で焼かれた日本の再生を描く戦後小説にもなっている。ちょっとだけ先回りして明かしてしまうと、二〇二一年冬に刊行される第三長篇『赫衣の闇』(文藝春秋)は、時間軸で言うと『黒面の狐』と『白魔の塔』の間に挟まる物語だ。本書をすでに読まれた方はお気づきだと思うが、本文中に波矢多が闇市で恐るべき事件に巻き込まれた、という言及がある。それが実は『赫衣の闇』なのである。炭鉱・海運ときて、次は闇市だ。お読みいただければ、これもまた戦後日本の姿を描くための欠かせない要素であることがわかるはずである。私は読みながら田村泰次郎『肉体の門』(一九四七年。新潮文庫)を連想したが、江戸川乱歩の諸作を思い出す人もいるかもしれない。
さて、そうなると気になるのは『白魔の塔』のさらにその後だ。灯台守を経て、果たして物理波矢多はどこへ行くのか。地底、絶海、どぶどろの巷と来て次の舞台は何か。『黒』、『白』、『赤』と続いたから題名につくのは『青』か、などと想像を逞しくしたいところだが、答えはきっと轟ヶ崎の岸壁に砕ける波頭だけが知っている。
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