- 2021.11.17
- 書評
無意思、無思考、無反省。今日も堕ち行く下流大学教員クワコーの強みとは。
文:鴻巣 友季子 (翻訳家)
『ゆるキャラの恐怖 桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活3』(奥泉 光)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
わたしは奥泉光の大ファンで、とくに作者のユーモアとアイロニー、そしてその融合の絶妙さに惹かれる者である。
『桑潟幸一准教授のスタイリッシュな生活』シリーズは謎ときミステリであるが、英米文学でいえば、「キャンパスノベル」あるいは「アカデミックロマンス」などと呼ばれるジャンルの傑作にも比肩すると思う。もはや古典となっている、フィリップ・ロスの(教授が肉欲の軛に懊悩する)『欲望学教授』や、デイヴィッド・ロッジの(学者同士のせせこましいすったもんだを描いた)『小さな世界』、ミステリ仕立てならアマンダ・クロスの『ジェイムズ・ジョイスの殺人』などなどを想起させられた。
さて、本シリーズの愛読者には、説明はあまり必要ないと思うが、この巻から読まれる方々もいると思うので、少し紹介したい。
桑潟幸一准教授、通称クワコーは、シリーズ第一弾のときには、四十歳、不惑の年だった。新任した勤務先は、千葉の「たらちね国際大学」。学業面の評価において抜きんでて上位にある大学ではない(率直にいうと最下位に近い)。ここの、日本文化学科の准教授となったのである。
彼はどういう先生かというと、授業に同じノートを使って十数年という、筒井康隆の『文学部唯野教授』でもこき下ろされていたような怠惰なタイプだ。このご時世で教員手当てをことごとく削られ、手取り月給は11万とんで350円だった。その後、下がりこそすれ、上がった気配はない。
しかし、この頃のクワコーはまだ太宰治の研究者としての矜持も(少し)あり、悩める中年教師だった。まず、彼はこの学内の環境にあって孤独というものを感じていた。学生とは話などまったく通じない。学生の発する言葉といえば、「きたー、木村姉! 茂原のアゲアゲ女」「ぐおうっ」「激しぽ」「えー、ありだよ、むしろあり」という具合だ。
クワコーは学生の会話も、彼女たちが日常的に行うコスプレという文体も解せず、コミュニケーションは頓挫して言語封鎖にあい、彼のまわりを言葉がただ喧しく飛び交うという状況があった。わたしはこの語りのグルーヴとペーソスに、奥泉文学の根元にある漱石の『坊っちゃん』を想起させられた。東京から四国の中学に赴任してきた坊っちゃんが直面する異言語との遭遇とよく似ていると思うので、ちょっと引いてみよう。
「バッタた何ぞな」と真先の一人がいった。……この学校じゃ校長ばかりじゃない、生徒まで曲りくねった言葉を使うんだろう。……一番左の方に居た顔の丸い奴が「そりゃ、イナゴぞな、もし」と生意気におれを遣り込めた。
片やクワコー。初対面の女子学生にいきなり訊かれる。
「なんなの? あったことって。教えてくれる?」と挨拶もなく訊問してくる調子は、ほとんどあっけにとられるくらいのぶっきらぼうさ加減である……「笑い声って、どんな声?……で、その声は、どんなふうに聴こえたわけ、クワコー的には?」……この女は誰だ?
だれにも理解されず、だれをも理解できず、関係の深い挫折を経験するクワコーと坊っちゃん、ふたりの教師。「クワコー」には「坊っちゃん」の近代人としての孤独が持ち越されているのだった。
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クワコー・シリーズは第二弾に『黄色い水着の謎』が発表され、その後に出たのが第三弾の本書『ゆるキャラの恐怖』だ。基本的に、各話は本格ミステリで、密室事件、幽霊騒ぎ、盗難書簡など古典的な推理ネタをそろえてきたし、最後には鮮やかな謎ときもあるが、やはり味わい深いのは、奥泉流の諧謔が染みわたる語りだと思う。
本書のクワコーは「たらちね国際大学」日本文化学科の、相変わらず准教授だ。いまだに研究書の一冊も書いておらず、学究意欲、教育熱意もダダ下がりしている模様。
太宰文学の探究はどうした? 太宰について駄文を寄せるタレント作家に憤っていたのではないか? しかもいつの間にか、異言語だった若者言葉も習得(?)し、意思疎通にも困っていない。ナース山本が、「それって、つまりあれだよね、とりこ捜査だね」と言おうが、「わたしたちがクワコー先生の骨をまきます」と言おうが、恬然としている桑潟であった。水は低きへと流れるのが摂理で、クワコーはいまやあらゆる「思考」や「内省」をほぼ停止させるに至っているようだ。
とはいえ、じつは本作は見た目よりもかなり社会派なのだ。そこをこれから説明したい(クワコーはそういうことを声高に叫ばないので、不粋だけれど)。
目下の「たらちね国際大学」の至上命令は、入学志望者の減少に歯止めをかけ、「定員割れ」を回避することだ。大学教師の三大業務といえば、教育、研究、行政だとクワコーは言うが、同学では、第四の柱、すなわち営業が隆として立てられ、最優先されている。合い言葉は「なによりもセールス・プロフェッサーであれ!」。
そのためには、志願者のリクルートだ! 学会出席で営業を休むような教授は「非常識」とされるが、そこへいくと、クワコーはたいへんな優等生である。研究書の一冊も読まず、黙々と大学の宣伝ティッシュを配ることができるからだ。思考停止は強し!
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