わからないな。ただ朝に目が覚めることの、何がそんなにおもしろかったんだっけ。ここにあるのは、おなじみの頭痛と喉の渇きに加えて悪夢を起因とした動悸。それと大事なものを忘れている不安感が胃の底に溜まっていただけで、おもしろいことは何もない。わからない。
瞼をこじ開ける。光になる前の、ただ薄暗い色の波が目に散らばる。毛布を離れた体が冷たい。さて、今日だ。今日とは昨日時点でいうところの明日。きっと来る、明日は来る、と昨日信じた今日が、本当に来た。自分が誰だったかを思い出す。何もかもを思い出す。女友達などいなかったことを思い出す。残念ながら私には、秘密を共有するような近しい友人はこれまでひとりもいなかった。さっきまで思い出していた女の子は、子供時代につくりだした空想上の友達、私の脳内にしか存在しない。今、私には娘だけがいる。まずやるべきこと。娘のために朝食を用意する。これからキッチンへ行って、ケトルに水を入れて火にかける。娘を産んでから、娘の朝食の用意を忘れたことはいちどもない、いちども。裏返したカードがめくれるように、私にまつわるひとつひとつが明らかになって、今度こそ本当に、目を覚ます。
「AI、何時?」
「七時四十五分です」
人間が起きてくるのを待ち構えていたらしく、その声は夜のあいだにたっぷり仕入れた情報を一気に放出する。落ち着いた男性の声だ。ネイビーのスーツにネクタイを締めた、清潔な見た目のアナウンサーの顔が頭に浮かぶ。昨日の夜、デフォルトの若い女性の声から変更したのは正解だった。周波数は低いほうが耳に馴染む。彼は自分が入れられているなめらかな手触りの器を紫色に明滅させながら、早朝に立て続けに入った夫からのメッセージを読む。どうやら今日も夫は帰らない。日本時間の深夜に乗る予定だった飛行機が欠航になったのだ。AIは機転を利かせ、フランスの航空会社のウェブサイトから抽出した新着情報を片っ端から読みあげる。
「ストップ」と止めさせると、彼は間髪を容れずに「空気清浄機の清掃を」と指示を出し、「『Awakenings』の新着動画がアップロードされました」と通知する。続けて、朝食のメニューの提案。
「小松菜とバナナと豆乳を使ったスムージー、もしくは小松菜と油揚げの味噌汁はいかがでしょう。小松菜はそろそろ使ったほうがいいですよ」
言われたとおりに朝食の支度を始める。しばらく経ってから、いつもより視界が暗いのは部屋の暗さのせいか、と気づく。窓に目をやる。起きたときの不安の正体のひとつが判明する。洗いかけた小松菜をザルに置いて、足をふんばり掃き出し窓を開ける。突風と轟音を顔に受けながら、
「今日から七月です」との報告を後ろに聞く。
この続きは、「文學界」12月号に全文掲載されています。
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