紙一重ながらなんとか嘔吐を回避した皇児は縁側の雨戸が開いているのに気づき、気配を殺しつつそちらへ近づいてゆく。
裏庭に面したサッシ窓には両開きのカーテンがかかっている。白地にひとつだけ変な模様がプリントされたいかにも安っぽいカーテンだが、それに経年劣化も加わったせいか、中央部分がレールのランナーからいくつもはずれてベロンとめくれてしまっていて、きちんと閉めきられていない。勢いよくひっぱった拍子にそうなったのを放置しているのだとすれば、手いれとか修理とかの発想があまり湧かない無頓着な住人なのかもしれない。なんにせよこれなら隙間からなかをのぞき見しやすいのでこちらにとっては好都合だ。
しゃがんで屋内をのぞきこむと、その窓に隣接しているのは居間だとわかる。皇児は視線をゆっくりあちらこちらへ移動させて部屋の様子をうかがい、老婆の姿を探してみるがどこにも見あたらない。テレビ画面はなにも映しだしていないしテーブルに食べかけや飲みかけが載っているわけでもないから、一時的な離席とかでもなさそうだ。夕飯どきでもないのに居間にいないということは、寝室でがっつり昼寝でもしているのかトイレにこもっているのか、あるいはぽっくりいってしまったか。
それにしても、この庭は風とおしが悪くて湿気がえらいことになっている。ただでさえマスクが息ぐるしくて変装用に着てきた背広も暑くてならないのに、蚊が飛びまくってもいるから長居はしたくないと皇児は強く思う。ここらでいったんきりをつけ、通りへ退避しなければ身が持たない。
きりをつけるには答えがいるが、居間に住人がいない理由なんていくらでもありそうだ。安全な部屋に隠れて警察待ちという可能性もぬぐいきれないものの、しかしそれにしてはパトカーの到着が遅すぎる気もする。
どのみちぐずぐず迷っていたらリスクは増すのだから腹をくくり、もういっぺんピンポンを鳴らして反応をたしかめてみるべきかと思いたつ。うたた寝中なら今度こそ目ざまし効果を果たして婆さんが飛びおきてくるかもしれない。
即行動に移るべく、さっそく門扉のほうへもどりかけるや皇児ははたと足をとめる。まわれ右する途中、視界のはしっこに映ったものに妙なひっかかりをおぼえたためだ。その違和感にみちびかれるようにして顔を横に向け、視線をカーテンの一箇所へ集中させる。
さっきは模様としか思わなかったが、目をこらして再確認してみるとそれは仕様のデザインではなく、ついて間もない染みのように見てとれる。そのうえ液体の跳ねた跡というよりひとの手形に近い形状をしていて、色は赤黒い。
あれって血痕じゃないのか。現場状況から考えてみると、血がべっとりついた手でカーテンをつかんだ結果、そんな痕跡が残ってしまったという経緯が浮かんでくる。ということは、なんらかの流血事件が発生して間もない場面なのかこれは――皇児がそう推しはかるや、当のカーテンがとつぜんレールごと落っこちてばたんと音を響かせ、その陰で息をひそめて立っていたらしい人物の姿があらわとなる。
この続きは、「文學界」1月号に全文掲載されています。
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