自身の病気を著書で徹底的に描いた頭木氏と横道氏、そして両者の仕事を「当事者批評」と名づけた斎藤氏が語る、文学と批評の新たな地平。
■病跡学から当事者批評へ
斎藤 私は日本病跡学会の機関誌「日本病跡学雑誌」の編集を担当しています。ニーチェの「病者の光学」という言葉がありますが、病跡学という学問は、精神医学の方法論で天才や傑出人の創造性の秘密を解き明かそうというもので、いわば人間の本質に病のほうから迫ろうとするわけです。最近では見るかげもありませんが、一九七〇年代から八〇年代にかけてはかなり盛り上がった分野だったんですね。当時は統合失調症こそが真のクリエイターみたいなことがまことしやかに言われていた。私も持ち上げた一人ですけれども、カフカやムンク、あるいはデヴィッド・リンチや漫画家の吉田戦車など、統合失調症的な印象を与える作品や作家が非常に高く評価されていました。
ただ、そうした風潮には、実は違和感もあったんですね。デヴィッド・リンチも吉田戦車も、本人はまったく病んでいないにもかかわらず――インタビュー資料などからの憶測ですが――精神科医から見ると、病んでいるとしか思えないような表現が成り立ってしまう。つまり、その人のキャラクターと作品との間に乖離があるんですね。こうした事態を説明すべく、本人と作品、あるいは社会との関係性において作動する「病因論的ドライブ」という概念を提案したこともあります。それはともかく、二〇一〇年代に入ってからは、病気よりも健康があらためて注目されるようになり、病跡学からも「天才は病んでいると言うよりは、常人以上にタフなレジリエンスを有しているのではないか」という方向のアプローチが出てきました。この視点からは、創造こそが健康生成の秘訣、といった見方も可能になります。従来の病跡学を意味する「パトグラフィ」に対して、健康生成学的な病跡学は「サルトグラフィ」という名称を与えられています。
こうした従来の病跡学のアプローチを反転させたのが、横道さんの『みんな水の中』であり、私は書評の中でそれを「当事者批評」と呼びました。
当事者研究はいま、ちょっとしたブームと呼べるような勢いがあります。自分の病や問題をテーマにして、自分自身の病のメカニズムや主観的世界のありようを詳細に記述し、専門家の人々に対しても「そこは違う」と異議を申し立てていく。たとえば発達障害に対する誤解はとても多くて、横道さんも書かれているように、DSM(精神疾患の診断・統計マニュアル)の記述なんて患者の尊厳を傷つけるための言葉しか並んでいないようなところがあります。そこに異を唱える当事者発信が見直され、熊谷晋一郎さんのいる東大先端研の当事者研究の研究室を中心に新たなムーブメントが巻き起こってきている。もともと当事者研究は、「べてるの家」の向谷地生良さんたちが始めた活動ですが、熊谷さんたちはそれをアカデミアのなかに定着させようとしているわけです。
そのさらに先を行こうとしているのが、当事者批評じゃないかと思っています。つまり、自分の内面や自分の行動に向けられていた視線、従来異常とされてきたような「発達特性」を、逆に作品解釈のための足場としつつ、その視点から作品とか思想をとらえ直そうとする。この点が非常に新鮮に感じたんです。『みんな水の中』が出た直後に発刊された、ラルフ・ジェームズ・サヴァリーズの『嗅ぐ文学、動く言葉、感じる読書』(みすず書房)も発達障害の人々と一緒に文学作品を読んでいこうという試みですが、私は横道さんのほうが方法論的に先を行っているように感じました。たとえば発達障害者の視点から見ると、中動態の思想も日常的なモードとして解釈される。さまざまな文学作品も、定型発達的な脳を持つ我々には想像もつかないような視点から解釈されていて、もう病跡学は専門家が占有する時代じゃないだろうということを痛感しました。これからは当事者の人もどんどん参入してきて、当事者ならではの視点で議論を展開してもらったほうが、病跡学も豊かなものになる。もっと言えば「延命」できる(笑)。そういう新しい可能性が当事者批評という領域にはあると思ったわけです。
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