私がこれらの山岸作品に出合うのは、私自身が三十歳を過ぎてからだ。もしリアルタイムで読んでいたら、私はもう少し家や親や、従来の既成概念にたいして自覚的な疑いを持ったのではないかと想像する。同様に、これらの作品に出合うことによって、さまざまな種類の呪縛の存在に気づき、救われるような気持ちになる読者は、今なお多いのではないかと想像する。
少々象徴的なことだけれど、私の親は家で漫画を読むことを禁じていて、だから私は家を出てひとり暮らしをする二十歳のころまで、きちんと漫画を読んだことがなかった。そういうわけで、山岸作品との出合いも遅いのである。漫画を読むと勉強しなくなるから、というのが禁止の理由だったけれど、これらの作品と、だから出合えなかったと考えると、無自覚にせよ親が禁止することで阻止していたのはいったいなんだったのかとあらためて考えてしまう。
収録作の多くはまた、親と子だけの問題ではなく、夫と妻の問題をも描き出している。いくつかの作品には、家父長制と父親不在が混同する、いってみれば矛盾した家族形態が描かれる。父親・男性の絶対的優位は、家庭における不在という特権をも作り出す。父による、不在にしながらその家庭を支配するという離れ業を可能にしている。そして母たちは、絶対的な男性優位を自身のうちにしっかりと浸透させて、疑うことがない。夫の不在を嘆きながらも夫に頼り、自身で家庭をハンドリングしようとはしない。
家庭における責任を放棄している夫も、嘆き憤りながらもそれに甘んじるしかない妻も、それぞれの親によって、もうずっと長いこと、おそらく生まれたときからそのように教えこまれている。その親たちも、またその親たちから……と、彼らの問題は連綿と継承され続けてきた。これは個人の問題を超えて、社会に浸透した文化といえる。文化という言葉が大仰に思えるくらい、さりげなく私たちにしみこんだ考えかたやありようだ。おにぎりを踏みつけることができないように、箸が折れたらさっと不安が走るように、女性は男性にお酌をし、人前に出るときは化粧をする。
「鏡よ鏡…」に登場する母親は、女優として名をなし、七人の恋人を持ち、独立して生きているが、そのうつくしさの尺度は男性によってあたえられたものである。この作品の真のおそろしさは、暴かれた母親の正体ではなく、その娘が、母が男性によって負わされたうつくしさとその価値を、まったく疑うことなくそのまま継承していくことであるように、私には思えてしまう。
この数年で、そうした男性優位社会や父権制度には大きな疑問が投げかけられ、社会全体がその旧弊な価値観を覆そうとしている。それだけでなく、男らしさ女らしさ、外見を重視する風潮、社会的少数者への偏見や差別も、なんだかおかしいから変えていこうという声が大きくなった。けれども、それらを説明するときにもっとも伝えやすい言葉が、ジェンダーバイアスとかルッキズムとかマイノリティ問題とか横文字にならざるを得ず、据わりのいい日本語が見あたらないということが、今まだ変容と成長を嫌う私たちの社会の現状であるようにも、私は思うのだ。
しかしながら、昨今どんどん重大ごととしてあらわれるそれらの問題の、いちばんの核は何か、ということを、私はこの作品群が伝えているような気がしてならない。子を支配する母親、父不在の父権家庭、男性優位社会……等々を描きながら、父権的な父親やそれに従属する母親を、この作品群は批判してはいない。それらのはびこる社会をも非難していない。父だろうが母だろうが、男だろうが女だろうが関係なく、人は人をたやすく支配できるし、人は無自覚によろこんで支配される。むしろそうした関係のほうが、ときとして生きていくのに楽で、甘やかだ。でもそこに自由はない。人の生きる幸福はそこにはない。
この作品群が私たち読み手に伝えるのは、だれによっても支配されてはならない個のたましいであり生だ。セクシズムがいけない、ジェンダーバイアスがいけない、ルッキズムがいけないというのは、その個の自由と幸福を奪ってはならないからだ。その本質はときとして置き去りにされたまま、議論や批判が行われていることは案外多い。
山岸凉子さんという作家を特定のジャンルにあてはめることが不可能だと先に書いたが、けれど人の真の自由、人の真の幸福を追求し続けている、それはどんな作品にも通底しているのではないかと私は思う。おそろしい漫画、うつくしい漫画、古今東西を舞台にした漫画、なんであれ、山岸凉子作品を読むこと自体が新鮮な驚きと喜びで、読み終えたときあたらしい地平に立った気分になるのは、真の自由、真の幸福の、あらたな面をいつも見せ続けてくれるからではないか。
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