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窓目くんの手記5 レイニーブルー

窓目くんの手記5 レイニーブルー

滝口 悠生

文學界5月号

出典 : #文學界
ジャンル : #小説

「文學界 5月号」(文藝春秋 編)

 三か月ぶりにヒースロー空港に降り立った窓目くんは、久しぶりだな、と呟いた。声には出さない。内心の呟きである。久しぶりだぜ、だったかもしれなかった。自分の心中で呟かれた言葉も、過ぎればすぐにその語尾は曖昧になった。ましてそれは到着したこの地の言葉つまり英語で到着の感慨を表明する下準備のためのひと声だったかもしれず、となれば日本語の語尾がなんであれあまり関係がないのではあるが、ふだん日本語ではまず口にすることのない、だぜ、という調子が無意識のうちにそこにあった可能性は結構あった。最終的に英語としてひとに伝わるとわかっているからこそ口にできる、口にしてしまう日本語がある。そのことを、この数か月のあいだ窓目くんは何度も実感していた。

 久しぶり、という文言をどう英訳すればいいのかすぐには思い浮かばず、スマートフォンの自動翻訳に問えば、long time no see.と表示された。三か月ぶり二度目のロンドンに到着したいまの自分の感慨を表す英文としては不自然な表現かもしれないが、画面に現れたその英文に窓目くんは得心の感を得た。

 この日は二〇一七年十二月二十九日である。こんな年末にロンドンを訪れた理由はほかでもない。三か月前にこの地で出会い、以来時差九時間、飛行機で十二時間、直線で結べば六〇〇〇マイルの距離を隔てながら日々メッセージのやりとりやビデオ通話でままならない言葉を交わし合い、お互いの思いを確かめ合い、ふたりのあいだにある恋情を育んできたシルヴィ、彼女に会うためだった。シルヴィと会って、一緒にニューイヤーを迎える。それに加えて、年明けの一月一日はシルヴィの誕生日だった。クリスマスこそ一緒に過ごせなかったものの、一緒に新年を迎え、彼女のバースデーを祝うために窓目くんはロンドンにやってきた。三か月は長いか短いか、久しぶりか久しぶりでないか、そんなことをいま自分以外の尺度で考える必要があるだろうか。ない。窓目くんにとっての、窓目くんとシルヴィにとっての三か月が報われようとしているいまここで、その時間はたしかにlong time no see.と表されるべき時間だった。

 試しに翻訳アプリに入力した原文の語尾を、だぜ、に変えてみると、It’s been a long time.と英文も少し変わった。こちらの方がいまの自分の状況と心情には自然な表現かもしれなかった。ということはやはり、さっき自分は、久しぶりだぜ、と呟いたのだったろうか。

 いずれにしろその感慨が声に出して表されることはなかった。いまのところ窓目くんは単身ヒースロー空港に降り立ったばかりで、心中に湧き上がる思いについて言葉を向けることのできる相手は誰もいなかった。強いて言えば、すべての言葉はいまはまだそばにいないシルヴィへ向けられている。この三か月間ずっと。

 窓目くんが搭乗した機内は年末で満席、入国審査の列も混み合っていた。荷物引き取り所でレーンに荷が流れてくるのを待つあいだも、三か月前に来たときよりも空港内はずいぶんと賑わいがあった。同じ便に乗っていた客か、年末年始をこちらで過ごす日本人らしい姿もちょこちょこ見かけた。

 空港内にいる誰彼の心中もきっとまた、残すところ三日となった年末と、来たるニューイヤーを控えたバカンスのムードに浮かれたり昂ぶったりしていたのではないか。オリーブグリーンのダウンジャケットに黒い化繊のクライミングパンツを穿いてスーツケースを転がす窓目くんは、冬のバカンスを楽しみに来たにしては地味で落ち着いたアジア人に見えたかもしれないが、その心中はちゃんと昂ぶっていた。エレベーターに乗り込んでスマホを取り出し翻訳にかけると、I’m excited.と表示された。そう、こう見えて俺はエキサイトしている、と周囲にいるイギリス人らしきひとたちにも心中で語りかけてみる。また試しに、俺は昂ぶってるぜ、と語尾を書き換えて翻訳にかけると、I’m crazy.と訳が変わった。隣にいた背の高い白人の男性の視界に窓目くんのスマホの画面が入って、一瞬眉を引き上げて目を見開いた。窓目くんはそれには全然気づかなかった。

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