- 2022.06.13
- 書評
純粋なまま大人になることは不可能なのか? これは現代に生きる我々の物語だ
文:杉江 松恋 (書評家)
『飛雲のごとく』(あさの あつこ)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
失い、崩れ、去っていくものばかりだ。
兄も源吾も、屈託なく笑い合った日々も、みな春に降る雪に似て淡々と消えてしまう。
青春の端境期には誰もが味わったことがあるであろう寂しい思いを『飛雲のごとく』は描いていく。個人の感傷であると同時に、それは時代の空気を表す言葉でもある。『火群のごとく』と『飛雲のごとく』の間には二〇一一年三月十一日に起きた東日本大震災という大きな出来事が横たわっている。「屈託なく笑い合った日々」とは、大震災とそれに続いて起きた諸事によって遠くなってしまった心の平穏ではなかったか。
短篇集『もう一枝あれかし』の収録作は、最初の「甚三郎始末記」が大震災の直前、他の四作は発生後に発表されている。ままならぬ運命を生きる登場人物たちを描きながら作者は、時代の趨勢(すうせい)を見極めていたのではないか。『火群のごとく』を書き終えた時点であったかもしれない続篇は、二〇一一年の状況によって書き換えを余儀なくされたはずである。続篇が書かれるまでに時間を要したのは、それが原因ではないかと私は考える。震災の後、世界からは精気が失われ、もはや清明さは望むべくもないという風潮が人々を支配するようになった。心が疲弊した時代に必要な物語として『飛雲のごとく』は書かれたのである。
『飛雲のごとく』の中核をなすのは、林弥と亡き兄・結之丞の妻であった七緒との関係である。十四歳離れたこの女性を、林弥は密かに恋している。いや、その思慕の念は間違いなく七緒にも伝わっている。伝わっているがゆえに口には出せない。
『火群のごとく』の結末において林弥は、七緒には絶対明かせない秘密を知ってしまう。そのことが七緒に対する思いに屈折を生じさせる原因になるのだが、『飛雲のごとく』においてはさらに、一歩進めばすべてが崩壊するという事態を招き寄せることにもなる。このへんの物語運びが絶妙で、鍵を握る人物が意外なところから現れるのも実に巧い。物語の中盤は崩壊の予感しかなくて手に汗を握らせられるのである。だが、ご安心いただきたい。あさのは世界を崩れるままには捨て置かなかった。清らかさ、まっとうさを失わずに前に進み続けるためにはどうすればいいかを、この作者はきちんと描くのである。題名の「飛雲」が表すように、純白を保ちながら蒼穹(そうきゅう)を行くものたちの姿が結末には浮かび上がって見える。
前作『火群のごとく』には物語構造を支える二本の柱が備わっていた。一本は少年剣士を主人公とした成長小説としてのそれで、林弥が真の自分を発見していく過程が独自の太刀筋に開眼する物語とも重なり、剣豪小説の要素も持ち合わせていた点に独自性があった。盟友・樫井透馬とも、最初は剣のライバルとして出会うのである。ミステリーがもう一本の柱だ。天才剣士と謳われた新里結之丞は、なぜ無為に背後から斬り殺されたのか。林弥の周囲を知らないうちに不穏なものにしている陰謀の正体とは何か。そうした謎が物語の牽引役となる。題名にある「火群」は、第一義には小舞藩で盛んな鵜飼に用いられる篝火(かがりび)を指すものなのだが、林弥の前途に広がる闇の中に浮かび上がる、得体の知れない怪火と捉えることもできる。その不穏を林弥の剣が薙(な)ぎ払うのだ。
青春小説であり、少年を主人公に配した剣豪小説でもあるという見事な完成度を『火群のごとく』は持っていた。その続篇である『飛雲のごとく』で作者は、剣の要素を潔く捨てた。戦闘場面はもちろんあるのだが、主ではなく、林弥と透馬、和次郎の精神的な紐帯を描くことに力点は置かれている。力ではなく、信こそが世界を和すのだと言わんばかりに。哀しい出来事も起こる物語なのだが、最後には自然と笑みが浮かんでくるというのが素晴らしい。林弥と七緒の関係についても、偽りのない形で二人の心を描くことに意が尽くされている。それゆえの結末に描かれる青空であり白い雲なのだ。清らかさに背中を押される小説というべきか。本作単独でも間違いなく心に滲みる作品ではあるが、『火群のごとく』に遡って読まれればさらに味わいは増すはずである。
第三作『舞風のごとく』は『飛雲のごとく』からさらに数年後、林弥は二十代になって名を正近と改めている。ページをめくり、彼と再会した瞬間に懐かしさがこみあげるはずだ。涼やかな笑顔が眼前に浮かび、谷間を行く清流の涼やかさが心に蘇ってくる。
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