千早茜に初めて会ったのは2019年東京都庭園美術館で開催された「岡上淑子 フォトコラージュ 沈黙の奇蹟」展のオープニングレセプションの会場だった。彼女の方から声をかけてくれたのだが私はまったく千早茜という小説家を知らなかった。彼女自身が小説家ですとあいさつしたのか連れの編集者が言ったのかはっきりしないが、私は少し驚いた。小説家? 私の知っている女性の小説家とはまったく違う雰囲気で、小柄でカワイイおしゃれな女の子といった印象だ。ましてや小説家とオープニングレセプションで会うこともめったにない。岡上淑子の作品はあまり一般的な作品ではなく、フォトコラージュという手法で海外の雑誌「LIFE」や「VOGUE」などファッション誌の中にある写真を切り取り、張りつけてまったく別の世界を作り出す作品である。少しマニアックな感じがしないではない展覧会のオープニングに出席するのはかなり写真に興味があるということだ。
それから一週間ほどして千早茜の名を偶然見つけて短編小説を読んだ。内容は誰れといつどこでどんなネタの寿司を食べるのかという話しだった(これは私が勝手に感じた内容かもしれない)。食べるという行為に対するセンスの良さが、今まで読んだことのない新鮮な感覚として伝わってきて、美術館で会った時の第一印象とはだいぶ違っていた。急に千早茜という小説家に興味がわいてデビュー作の『魚神』を読む。「う~~~ん」と唸りそれ以後のほとんどの小説を読むことになった。
『神様の暇つぶし』をもう一度読みかえす。主人公の柏木藤子は背が高く着るものは無頓着で化粧っ気のない地味な男っぽくみえるキャラクターの女子大生だ。その彼女と父親より歳上で30歳ぐらい離れた男が過ごしたひと夏の物語である。
藤子が少女だった頃、近所にある写真館の不良息子として知られていたその男が、ある日突然現れたことで物語が展開する。亡くなった父親があこがれていたその男は有名なカメラマンになっていた。処女の藤子と妻帯者で女性問題が複雑な男と、成り行きのように関係が出来上がる。死を前にしたカメラマンの男は、ほとばしる若さと熱量のかたまりのような藤子とのsexシーンでの肉体を写真に撮り、遺言通り彼女の名前がタイトルの『FUJIKO』として写真集が出版されたのである。
写真を撮る行為はある種ピーピングマシンとしてのカメラをのぞくことでもある。特にカメラマンは男が多く、まさにカメラ・マンなのだが、レンズをのぞく事の原初的な欲望は男の方が強いかもしれない。私は見る側の人間であるが見る事の記録としての写真でなく、見えないものを意識する写真を目指してきた。それは記憶に近い感覚だ。藤子が冒頭で「やがて、純度の高い記憶だけが網の上できらきらとした結晶になって残る。」と言っている。それは写真の事かもしれない。