本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
戦争の「正史」に背を向けた女たちの語り

戦争の「正史」に背を向けた女たちの語り

文:加藤 聖文 (歴史学者)

『女たちのシベリア抑留』(小柳 ちひろ)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #ノンフィクション

『女たちのシベリア抑留』(小柳 ちひろ)

 戦争には強者と弱者しか存在しない。それを分けるのは「力」だけであって、力の無い人びと――女性と子供と老人はいつも弱者である。そして、強者に比して弱者が圧倒的に多い。ウクライナでも戦争に翻弄されるおびただしい弱者の悲しみが、戦争を鼓舞する強者の声に抗うように日々積み重なっている。

 戦争の残酷さは、勝利を摑んだ強者は勇ましい英雄の物語として語り継がれ、「歴史」のなかに堂々と鎮座する一方、翻弄される弱者は記録も残らず、また語られることもなく、歴史の漆黒の闇に消えていくことにある。戦争の歴史は常に強者のものである。

 しかし、二〇世紀になって戦場と銃後の境界が消え、戦争の規模がこれまでと比較にならないほど肥大化し、それとともに兵士にとどまらず市民も巻き込まれて犠牲者が数百万数千万と人間の想像を超えるようになると、勝っても負けても英雄物語のように勇ましく語られる強者の戦争に誰もが違和感を抱くようになってきた。そして、人びとはこれまで顧みられることのなかった弱者の存在に気づき始め、彼らの声に耳を傾けるようになった。まさに、人びとは、強者の男たちが語り国家が称揚する戦争の「正史」に背を向けはじめたのである。

 弱者にとって唯一の武器は語ることである。語らなければその悲しみも苦しみも顧みられることなく歴史の闇に消えていくだけであった。しかし、現在の世界では、これまで歴史からこぼれ落ちてきた弱者の生の声をすくい取ることによって、戦争の「正史」を見直そうという潮流が広がってきた。スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの『戦争は女の顔をしていない』に代表されるように、見直しの主役となっているのが女性である。

 戦争は、それを行い、語り、記録する者は男性であった。しかし、物事というものは男性目線と女性目線では捉える対象も見える景色も随分異なる。戦争に関しては男性も女性も同じく巻き込まれるようになったにもかかわらず、私たちは相変わらず男性目線でしか戦争を理解してこなかった。確かに、男性目線によって複雑極まる戦争が俯瞰的かつ時系列的に整然と明らかになることもあるが、教科書のような味気なさが漂っていたり、誇張や正当化が見え隠れすることも多々ある。

 これに対して、女性目線は時間軸があちらこちらに行き来したり、ごく身近な話に終始して全体像がわからないこともあるが、一コマ一コマの細部が詳細でその時々の情景や感情が実にリアルに浮かび上がってくることがある。私も多くの戦争体験者の聞き取りを行っているが、女性の観察力や表現力の豊かさにはいつも感心させられている。男性の語りは知識を与える一方、女性の語りは想像力を豊かにする。そして、戦争の生々しさは男性よりも女性の語りから伝わってくることが多いものだ。ある意味において私たちは女性の視点を交えることで戦争の本当の姿を知ることができる時代にいるのである。

 本書もこのような現代の潮流のなかで世に現れたものである。その対象とするところはまさに男だけの世界と思われてきたシベリア抑留であった。

 実は、女性がソ連軍に囚われて抑留された事実は体験者を通じて古くから語られてきた。坂間文子の『雪原にひとり囚われて』に見られるように、兵士でないにもかかわらず理不尽にも抑留された女性たちの事情や置かれた環境は、男性よりも多様で複雑である。しかし、絶対数が少ないため圧倒的多数の男性兵士の抑留体験に埋没してしまい、社会的な注目も集まりにくかった。それでも幾人かの女性は細々と自身の体験を語ろうとした。人間にとって一番辛いことは、自己の存在していた事実が忘れ去られてしまうことである。とりわけ過酷な体験をした人は多かれ少なかれ、生きてきた証をどこかに刻み込んで後世へ伝えたいという思いを抱いている。ただ、このような思いを表出させ記録に留める術を持たない人は多い。また、時代が経つほど体験を感覚的に共有できる人も少なくなる。

文春文庫
女たちのシベリア抑留
小柳ちひろ

定価:880円(税込)発売日:2022年09月01日

電子書籍
女たちのシベリア抑留
小柳ちひろ

発売日:2022年09月01日

ページの先頭へ戻る