出発から4日目、この日も岸寄りを曇り空の下、寒々と漕いでいた。午後も夕方を過ぎた頃、アレキサンダー岬が沖合に見え、空腹と疲労に倦んでいた僕たちは、ショートカットをしようと沖に向かって舳先を向けた。ひとたび沖にでれば波音は遠ざかり、静寂が訪れる。単調なパドリングに飽きた僕は、何か釣れれば夕食の足しになるだろうと、糸巻きから釣り糸を垂らしながら呑気に漕ぎ続けていた。
「うおっ」
突然、左舷からドン! という岩に衝突したかのような衝撃を受け、水平線がぐるんと回転した。あやうくバランスを崩しかけたが、反射的にブレイス(パドルで水面を叩く動作)し、転覆を免れた。何が起きたのか分からなかった。岩礁に気づかずぶつかった? そう思って振り返ってみると、そこには鋭い牙をはやした海象が、まるで手を伸ばせば届きそうな距離でこちらを睨みつけていた。信じられない光景に一瞬言葉を失ったが、気づかず前を行く角幡さんにこの事態を伝えようとして咄嗟に「やられた……! 海象だ!」と叫んだ。まるで漫画みたいなセリフだな、と恥ずかしくなったが、このときはそれが精一杯だった。
「うわっ! マジかよ‼」
「島に向かって逃げろ!」
海象の襲撃に気づいた角幡さんにそう叫び、恐怖に駆られてがむしゃらにパドルを振り回した。すでに陸からはるか沖に出てしまった僕たちは、逃げ場のない海の上、まだ数キロ先にあるだろう小島に向かって漕ぐことしかできなかった。だがしかし、何故かいくら漕いでもカヤックが右に曲がってしまう。
「舵が利かない!? 襲われた時にラダーのワイヤーが切れた? 浸水は?」
「来てる来てる!」
落ち着け、落ち着けと自分に言い聞かせながら必死に漕ぐが、真横を向いた舵は抵抗となり、パドルが派手に水をまき散らすだけでまったくスピードをだすことができない。焦って振り返ると、黒く虚ろな目をした海象がまるで海坊主のように追いかけて来ていた。唯一の武器は角幡さんが持っていたライフルだが、角幡さんはスピードを出せない僕を置きざりにして振り向きもせず、島へ向かって一心不乱に漕いでいく。遠ざかる角幡さんの背中に向かって心の中で、
「置いて行きやがった、このクソ探検家!」
と悪態をつきながら、とにかく必死に漕ぐことしかできなかった(しかしたとえライフルを持ったところで、自分には狙って当てるような技術も自信もなかった)。
汗だくになり息を切らして漕ぎ続け、少しは遠ざけただろうか? と思ったその時、垂らしていたことを忘れていた釣り糸に、何か大きなものがかかった感触がして強く引かれ、体にぎりぎりと食い込んだ。
「海象がかかった?」
僕は恐ろしくなり、急いで糸巻きを海に投げ捨てた。
「まさか、釣りの仕掛けが海象を引き寄せた?」
そんな考えが頭をよぎったが、信じたくはなかった。
もう追ってはこないだろうか? 手を止めた僕は舵を海中から引き上げ(舵は手元のロープを引くことで仕舞うことができるのに、あまりに慌ててすっかり忘れていたのだ)落ち着いて被害を確認すると、牙に貫かれ左のエアスポンソン(浮力体)が破裂していた。だが幸いにも浸水はないようだ。海象は興味を失ったのかもう追ってくる気配はなく、とにかく角幡さんと合流しようと島へ向かって漕ぎ続けた。島の前で待っていた角幡さんに、自分を置いて逃げたことを咎(とが)めようかと思いはしたが、デポの設置が完了するまで二人の関係を悪くしたくはないし、まだ先は長いので黙っておくことにして「やられたぁ」などと言いながら、笑ってごまかした。
辿りついた島に上陸することはできず、岬の付け根の氷河に上陸してテントを張り、ようやく一息ついて恐ろしい出来事を振り返った。野生の動物に襲われたこともショックだったが、このとき不思議だったのは、お互いの記憶の中で、追いかけてくるのは知識として知っていた海象ではなく、ガサガサで土気色の肌をした、悪い夢に出てくる化け物のようにしか思い出せなかったことだ。二人ともパニックだったのか、恐怖心がそうさせたのかもしれない。まだ出発して4日目だというのに、先が思いやられる出来事だった。このあと悪いことに雪が降りだし、凍えながらカヤックの修理を終えてテントに戻ると、角幡さんはパスタを作ってくれていた。
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