その後も、潮位を見誤る失態を犯した僕らは、カヤックを流失しかけ、デポするはずのドッグフードを失ってしまう。計画は順調とは言えず、一度村へ戻って態勢を立て直すことになった。次の目的地であるイヌアフィシュアクへ向け、再び村を出発すると海は夏を迎え、2度も漕げば勝手知ったるものだと思っていたが、極地は一筋縄ではいかない。
その日は朝から寒かった。崖下で日の当たらないキャンプ地は、朝起きるとテントもカヤックも凍りつき、岸には厚い氷が張り詰めた。氷盤のひしめく海に航路を求めて右往左往、苦労の末アウンナットへと続く湾に入ったが、にわかに沖からやってきた霧に囲まれてしまう。微かに見える岸を確かめながら進むが、今度はあまりの冷気に海がメラメラと凍り始め、厚みを増す氷を、勢いをつけたカヤックで砕氷船のように砕きながら進むはめになっていた。この日の行動は10時間を超え、痺れる冷気に手足の感覚を失い、ヒリヒリとした焦燥感に包まれていた。不意に霧が晴れ、虹がかかり幻想的な景色が現れる。
「とんでもないところだなぁ」
そう言って日焼けした顔を向けた角幡さんが、度重なる氷への衝突に、カヤックの浸水を確かめようと手を止めた時だった。
「うう、うああああ!」
呻くような叫びをあげ、角幡さんがパドルを振りかざした。
「せ、海象だ!」
再びの襲撃に僕らは戦慄した。氷をバキバキと割りながら岸に向かって逃げ出すが、厚い氷に阻まれ、すぐに進退極まってしまった。
「ど、どうしたんですか?」
「パドルで殴った」
「殴ったぁ!?」
真顔で答える角幡さんにおもわず笑ってしまった。海の中から突然現れた巨大な海象は、角幡さんの反撃にデコピンをくらった小学生のような顔をしたらしい。
「殴って撃退したのだから、もう追ってこないんじゃないですか?」
まったく、人騒がせな海象だ。
現在地も分からないまま、この日は行動を諦めて上陸し、重いカヤックを引き上げた。
「このあたりのはずなんだがなぁ」
つかれた顔を上げると風が吹き、霧の向こうに小屋が現れた。ここがアウンナットだった。
小屋で数日の停滞のすえ、ひしめく浮き氷にカヤックでの前進を諦めた僕たちは、イヌアフィシュアクへは徒歩で向かい、デポはアウンナットの物置小屋に設置することを決めた。苦労して運んだ大量の食料や燃料をスポーツバッグに詰め込み、完璧とは言えなかったが、極夜の旅へ向けてデポを作ることができた。
「とても一人では無理だった、ありがとう」
固い握手で角幡さんにそう言われ、照れくさいが嬉しかった。僕の役目は果たせただろうか。
帰路に就くと、秋の気配を漂わせる海からは氷が消え、今までの苦労は何だったんだと思うほど順調に進み、10日程で村へと帰り着いた。帰国の日程が決まっていた僕はゆっくりとする暇もなく、慌ただしく帰り支度を始めた。その傍らで、角幡さんはヘッドランプの明かりを頼りに、日本から送られた原稿を直している。カヤックの旅が終わった感慨に耽る間も無く、極夜の旅へ向けて気持ちを切り替えたのだろうか。一人帰る僕は一抹の寂しさを感じていた。
窓の外からヘリの音が聞こえ、定刻通りに来たことを恨めしく思いながらカヤックを担いで村の高台へ向かうと、他の荷物を角幡さんが持ってくれた。僕は涙目になってしまい角幡さんの顔を見ることができなかった。村の人たちに見送られながら、「また漕ぎましょう」と約束してヘリに乗りこんだ。極夜の世界へ旅立つ角幡さんと、また会えるだろうか。ローターが回り、ヘリが飛び立った。窓の下に角幡さんが見えて手を振ると、見えているのか振り返してくれた。涙が止まらなかった。
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