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mRNAワクチンを開発し、コロナも征服。IT革命を超える衝撃、「生命科学革命」の全貌とは

mRNAワクチンを開発し、コロナも征服。IT革命を超える衝撃、「生命科学革命」の全貌とは

野中 香方子

『コード・ブレーカー 生命科学革命と人類の未来』 訳者あとがき全公開


ジャンル : #ノンフィクション

 研究室での発見、法廷での論争、会議での丁々発止(ちょうちょうはっし)のやりとりなど、すべての場面をアイザックソンはそこにいたかのようにリアルに再現する。その取材力と筆力には圧倒される。また、ブロード研究所の所長エリック・ランダーやフェン・チャンといったダウドナのライバルの懐(ふところ)にも飛び込み、本音を引き出す。アイザックソンの誠実で暖かな人柄に触れると、誰でもあっさり鎧(よろい)を脱いでしまうらしい。激しい戦いを描きながらも本書の読後感が爽やかなのは、彼のそうした人柄によるのだろう。


 新型コロナとの戦い、RNAワクチン開発、産学提携による一大産業の創出

 本書の重要なメッセージの一つは「自然に対する純粋な好奇心が科学の原動力になる」である。アイザックソン自身、好奇心のかたまりで、クリスパーによるゲノム編集に挑戦し、その作業がいかに簡単かを実証する。また、いち早く新型コロナのRNAワクチンの臨床試験にも参加する。

 そう、本書のもう一つのテーマは新型コロナとの戦いだ。アイザックソンが本書の前半を書き終えた二〇一九年一二月、新型コロナ感染症発生のニュースが飛び込んできた。この展開は彼もまったく予想していなかったが、新型コロナはRNAウイルスであり、RNAを専門とするダウドナは当然のごとくコロナとの戦いの先頭に立つ。彼女の弟子たちは必要な物資を他の研究室から調達・奪取し、大学の会議室を数日でウイルス検査ラボに変えていく。世界が新たな感染症に怯え、硬直している間に、若い科学者たちが超人的なスピードで戦いの布陣を敷いたことは、なんとも頼もしく思える。コロナとの戦いでは、それまで熾烈(しれつ)な競争を繰り広げてきたクリスパーの研究者たちが、研究の成果を積極的に共有するようになった。その結果、クリスパーはコロナ検査法とワクチンの開発につながった。アイザックソンは「パンデミックに見舞われた二〇二〇年は、伝統的なワクチンが遺伝子ワクチンに取って代わられた年として記憶されるだろう」と言う。

 モデルナがワクチン開発で一歩先んじた経緯も刺激的だ。同社は二〇二〇年一月に新型コロナウイルスのワクチンを作るプロジェクトを立ち上げ、およそ一か月後には国立衛生研究所に最初の試料(バイアル)を送った。二〇二〇年一月当時、モデルナは二〇種の薬品を開発中だったが、いずれも治験の最終段階に達していなかったという。それが今では世界有数の製薬企業だ。バイオビジネスの可能性の大きさが察せられるエピソードだ。

 ダウドナをはじめ、本書に登場する科学者たちは学術研究の枠を超えて、積極的にビジネスを展開する。「デジタル分野での学術研究とビジネスとの融合はスタンフォード大学の周辺で始まったが、現在、バイオテクノロジー分野でその融合が進んでいる。大学の研究者は、発見を特許化し、ベンチャーキャピタリストと組んでビジネスを立ち上げることを奨励されるようになった」と著者。このアプローチがもたらしたダウドナたちの成功を目の当たりにして、日本ではどうなのかと興味がそそられた。


 プーチンの予言、倫理問題、コロナが加速した生命科学革命

 やがて、話題の中心はヒトゲノム編集の倫理面に移る。ウクライナ侵攻を予言するかのような二〇一七年のプーチン大統領の言葉が紹介されている。「遺伝暗号に足を踏み入れる機会を人間は得た。望ましい特性を備えた人間を科学者が作ることを想像する人もいるだろう。そうして生まれるのは、数学の天才や優れた音楽家かもしれないが、恐れや思いやり、慈悲や痛みを感じることなく戦うことのできる兵士かもしれない」。ゲノム編集された人間を作ることの「利益」と「危険性」について語ったとされるが、今から振り返れば、そうした兵士の誕生をプーチンは「利益」とみなしていたのだろう。

 アイザックソンは問う。「今から数十年のうちに、ゲノム編集によって、生まれる子どものIQを高くしたり筋肉を強化したりできるようになったら、それを許可すべきだろうか? 目の色は? 肌の色は? 身長は? (中略)もし遺伝子のスーパーマーケットで売り出される製品が有料だとしたら、不平等は大いに増し、さらには人類に永久に刻み込まれるのではないだろうか」。この問いに、彼は安易に答えを出そうとはせず、読者が自分の問題として時間をかけて考えることを求める。

 二〇世紀に起きた原子力革命とデジタル革命につづいて、「現在、第三の、さらに重要な革命、すなわち生命科学革命の時代に突入した」「クリスパーの発明とコロナの流行は、この第三の大革命の進展を早めるだろう」とアイザックソンは言う。わたしたちは当事者としてそれを経験することになった。ニューヨーク・タイムズ紙の書評にある通り、『コード・ブレーカー』は、疫病の年となった二〇二〇年のわたしたちの日記でもある。

 二〇二二年一〇月

野中香方子

単行本
コード・ブレーカー 上
生命科学革命と人類の未来
ウォルター・アイザックソン 西村美佐子 野中香方子

定価:2,475円(税込)発売日:2022年11月08日

単行本
コード・ブレーカー 下
生命科学革命と人類の未来
ウォルター・アイザックソン 西村美佐子 野中香方子

定価:2,475円(税込)発売日:2022年11月08日

電子書籍
コード・ブレーカー 上
生命科学革命と人類の未来
ウォルター・アイザックソン 西村美佐子 野中香方子

発売日:2022年11月08日

電子書籍
コード・ブレーカー 下
生命科学革命と人類の未来
ウォルター・アイザックソン 西村美佐子 野中香方子

発売日:2022年11月08日

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