こうして池波正太郎の生涯を振り返ると、改めてその魅力を感じさせられる。私は氏の描く物語も好きだが、池波正太郎本人も大好きだと再認識するのだ。思えば、中学生でエッセイを読んだ頃から傾倒しており、自分の生き方に取り入れているといえば聞こえがいいが、真似していることも多々ある。
例えば、隠語は使わぬ。寿司屋などで隠語を使うのは職人であり客ではない。これを知ったかぶりに使うのは粋ではない。とはいえ、今の世の中では生姜のことは「ガリ」と呼んだり、お会計のことを「おあいそ」などと言ったりするのは市民権を得ているだろう。だが、私は頑ななまでに使わない。生姜は生姜、お会計はお会計、醤油を「むらさき」などと呼ぶのはもってのほかである。
他にも、心づけである。旅館などに泊まる時、正規の料金を払っているのだからと、我が物顔に振舞うなどは愚の骨頂。お願いしますという気持ちを込め、たとえ少額であろうとも先に渡す。先に渡せば、サービスが良くなるという少々の打算も吐露されているのも人間味があってよい。ただ、それで皆が気持ちよく時を過ごせるのだから良いという考えである。
私は高校の卒業旅行で、ぽち袋に千円を入れて渡した。かなり生意気な奴である。仲居さんも、「いいところの御子さんなんですね」と大層驚かれていたが、私は「池波先生の教えなので」と、返答したことを覚えている。
これだけではなく、池波正太郎には多くの流儀がある。私はこれを模倣することで少しでも近づこうという気持ちもあったかもしれない。だが、単純に感銘を受けたからでもある。
池波正太郎の流儀の中には、今の時代にそぐわぬものも少々あるかもしれないが、通用するものもあれば、むしろ思い出さねばならないものも多くある。そして、そもそも生きる上で、流儀を持っていることそのものに感銘を受けたのだ。
小説の中でも書かれている。人は善をしながら、悪をする生き物だということを。だからこそ、己にとってのぶれぬ指針、流儀が必要だと思っておられたのではないか。中学生の頃には思いもしなかったが、私も四十路を前にして、いよいよ考えさせられるようになった。
さて、最後に小説家としての池波正太郎である。本書の後半はその秘密を探っている。感覚的には理解していたことも、文章にされたことによってより鮮明になってきた。小説家池波正太郎の偉大さを、私に語らせれば、この枚数では足りない。ただ、一つだけ言えるのは、池波正太郎は生涯、人を描き続けた作家であったということ。紙と紙の隙間に、人の息遣いが聞こえるのだ。
これは池波正太郎が歴史家ではなく、徹底的に歴史、時代小説家であったということを意味する。さらにいえば、池波正太郎に関しては、「歴史」や「時代」の枕詞すらいらない。
ただ、小説家であり続けた。だからこそ過去の時代を扱っていながら、そこには人間の普遍的なテーマが描かれ、令和となった今なお、人々にも愛されているのだろう。
私も今では文筆を生業とするようになった。影響を受けた作家を一人挙げるというのならば、これもやはり池波正太郎である。作風なのか、文章なのか、それは読者から指摘されることも多い。登場人物のセリフ、句読点の打ち方などもそう。鋩、咳、腰間なども氏が使われたものを、私はよく使う傾向にある。氏の造語である「嘗役」なども、敢えて使っているのは私の原点であるからだ。ただ同時に一人の作家となった今、
――挑みたい。
という衝動にも駆られるようになった。勝つ、負けるではない。ただ、それが出来るようになった今、そうしたいのである。だから氏の十八番「真田もの」にも挑戦した。
私と氏には不思議な共通点もある。それは三十一になる歳で小説を書き始めたことと、三十七歳で直木三十五賞を受賞したこと。狙った訳でもないし、狙ったとしても出来るはずがない。偶然である。
ただ、とある少年が池波正太郎によって小説の面白さを教えられ、やがて同じ道を志すようになり、遂には一人の作家となったことは確かである。そして、いつかこのような稿を書く機会を頂けるようになると知れば、少年は嬉々として飛び跳ねるに違いない。
池波正太郎は私が五歳の時にすでに他界されていたが、もし作家として逢えたならば、何と仰っただろう。喜んで下さっても嬉しく、叱られたとしても嬉しいだろうなと。本書を読んでいる最中だけは、作家は少年に戻り、茫と考え続けていた。