本の話

読者と作家を結ぶリボンのようなウェブメディア

キーワードで探す 閉じる
円熟期の作家が「書きたくてたまらなかった」現代ミステリー

円熟期の作家が「書きたくてたまらなかった」現代ミステリー

文:伊東 昌輝 (作家)

『セイロン亭の謎』(平岩 弓枝)

出典 : #文春文庫
ジャンル : #エンタメ・ミステリ

 まだ発展途上国だった頃の日本にとって、もっとも重要な輸出品は絹とお茶だった。たとえば、第二次大戦前の女性のストッキングは絹で作られており、お洒落なアメリカ人女性などは戦争がはじまると日本からの絹の輸入がとまるといって、恐慌をきたしているなどという話が海のかなたから伝わってきたほどだ。

 お茶をめぐる詐欺事件、いわゆる狐(きつね)っ葉(ぱ)事件もたびたび起ったようで、平岩はこれを題材にして、「おんなみち」という小説を書いている。昭和四十二年十一月から静岡新聞に連載したもので、時代は明治の中頃、静岡の茶問屋をめぐる詐欺事件と、その店のひとり娘世津の波乱にみちた人生を描いている。

「セイロン亭の謎」を書く前の、構想の段階で、おそらく「おんなみち」の事件は作者の頭の中に浮かんでいただろうと思われる。

 この小説の主人公矢部悠の実家の茶問屋は静華堂であるのに対し、「おんなみち」のほうは清華堂となっていることからも、それがうかがえる。

「セイロン亭の謎」のほうでは、狐っ葉事件が具体的にどのようにして行われたかは書かれていないが、「おんなみち」ではそのからくりが詳細に描かれている。もちろん作品の性質上、この作品では過去の事件としてその内容を省略しているが、もし、その辺が気になる方は、「おんなみち」を読まれてみるのもいいかもしれない。

 セイロン亭は、主としてセイロン紅茶を客に出す店という設定だが、平岩がセイロン島、いまは戦後名前が変ってスリランカに旅したのは、この作品を書く十年ほど前のことだった。

 小説の中でも〈金はなかったが、時間はあり余っていた頃だったから、セイロン島の殆(ほと)んどを歩き廻(まわ)った。〉と書いているように、この時の旅行も、二週間ほどかけてゆっくりと観て回った。実際はテレビ脚本や舞台の台本、連載小説とかなり多忙な日々だったが、まだ若いということもあって、かなりのハードスケジュールをこなしていたのだ。

 冒頭にも、これまでに刊行された単行本の数が三百数十冊に上ると書いたが、このほかにもテレビ脚本、舞台台本などを入れると、その量は膨大なものになるだろう。

 作家の価値は作品の内容であって、量の多さでないことはもちろんだが、それにしても、なぜこれだけの作品を書くことができたかということは、セイロン亭ならずとも少なからぬ謎であるかもしれない。

 その答えの第一は、彼女の作品が読者や視聴者の方々から長期間支持していただけたことだろうと思う。いくら作家が作品を書きたいと思っても、プロであるかぎりは、注文がなければどうにもならないわけで、その点、本当に仕合せな作家だった。

 第二は、健康にめぐまれていたことだろう。ハードなスケジュールをこなすには、人並以上の健康を保持する必要がある。一晩に百枚くらいの原稿用紙をうめるということは、精神的にも肉体的にも想像以上に苦しいことなのだ。それをこの作家はこれまでに何度もこなしているし、五十枚程度なら、毎月、何度かのハードルを越えている。もっともこれは、単に肉体的な健康に恵まれているからといって出来るものではなく、それと同等か、むしろそれ以上の精神力の強さがともなわなければ不可能なわけだから、この答えは、心身の健康に恵まれていたからという方がより適切かもしれない。

 そして第三番目の答えは、好奇心がひじょうに旺盛(おうせい)だということだろうか。かといってこれを誰よりもとか、人一倍といういいかたも適当でないような気がする。むしろ自分の好きなものに対して、それをあくまで追求するというか、いつまでも興味を失わないというべきなのかもしれない。

 時代小説の原点となっているのは、江戸時代とあまり変っていないような環境の神社に育ったこと、娘時代から好きで始めた日本舞踊、長唄、三味線、仕舞、また芝居見物、読書など。現代小説の原点はこれももちろん少女時代からの読書や観劇、それに旅行好きなことも大事な要素の一つになっているのではないだろうか。

 人間をニワトリに例えて恐縮だが、ニワトリは一生のうちに産む卵の種をすべて腹の中に持っていて、それを次々と産んでいくのだという説があるが、この作家も、どうやらニワトリと同じで、若い頃、書きたいもののすべての種を胸の奥に貯蔵してしまい、それを次々と作品として産みだしているような気がするのだ。

 いいかえれば、若い頃に抱いた或ることへの興味をいつまでも失わず、大事に育ててきたからこそ時代物、現代物、戯曲などと多方面にわたる活躍が可能だったと思うのである。

 そして最後に、これは以上の三つをはるかに超えるものとして、学識とか理論とか主義とかでなく、不幸や苦しみ、悩み、辛(つ)らさを逆に喜びや楽しみや、希望に変換していくことのできる温かい心、豊かな心を持っていることではないかと思う。それは、長谷川伸というよき師に恵まれ、しっかりとした日本人の背骨を持つ両親のもとに育ち、戸川幸夫、村上元三、山岡荘八などというよき先輩諸氏にめぐまれた結果にほかならない。

 作家としていよいよ円熟期にさしかかっているこれからが、多分、彼女にとって本当の意味での真価が発揮されることになるのではないだろうか。大いに期待するところである。

(平成十年一月)

文春文庫
セイロン亭の謎
平岩弓枝

定価:803円(税込)発売日:2023年02月07日

電子書籍
セイロン亭の謎
平岩弓枝

発売日:2023年02月07日

ページの先頭へ戻る