- 2023.05.22
- 書評
人間への深い洞察力と詩情にあふれた、新たなハードボイルド小説の誕生
文:池上 冬樹 (文芸評論家)
『父を撃った12の銃弾』(ハンナ・ティンティ)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
枕が長くなってしまった。具体的に紹介していこう。
前述したように、物語の主人公は二人で、父親のホーリーと十二歳の娘のルーである。ホーリーは過去を描く挿話集「銃弾」の主人公で、物語の現在はルーの視点から捉えられていく。ルーが様々な人物と交流して、わだかまりが出てくると、それに呼応してホーリーの過去の挿話が提示されて、そのわだかまりが時に解けていく形式である。そのホーリーの物語では後の妻となるリリーとの出会い(これが何とも恰好いい!)、リリーとの結婚生活、ルーの出産、そしてリリーの死、ルーの成長(四歳頃)までが語られる。
ゆえあって各地を転々としてきたホーリーと娘のルーは、ホーリーの亡き妻の生まれ育った故郷、ニューイングランドの小さな港町オリンパスに腰をすえる決心をする。そこにはリリーの母親のメイベル・リッジが住んでいたが、ホーリーとルーが挨拶にいっても、母方の祖母は父娘に会おうとしなかった。
それには理由があった。ホーリーの体には被弾による多数の傷痕があり、後ろ暗い仕事のために夜逃げ同然の経験を何度もしてきたからで、メイベルはそれを嫌っていた。しかも娘リリーはホーリーに殺されたとも考えていた。ルーは祖母の話から、母親の死をめぐる秘密があると気付くようになる。それは一体何なのか?
物語は「ルーが十二歳になったとき、父親のホーリーはわが子に銃の撃ち方を教えた」という文章で始まる。危険と死をはらむ不穏な物語にふさわしい書き出しで、事実、現在と並行してやくざ者のホーリーが被弾にあった過去の章が挿入され、暴力的な人生が描かれていくからだが、しかしそれは最初見えにくい。ルーの青春小説としての輝き、いじめにあったり、仕返したり、初恋、初体験などが、父親や街の住民たちのいざこざをまじえながらゆったりと描かれていくからである。
おそらく読者のなかには、世界的ベストセラーで、日本でも大いに話題になった湿地の少女の一代記、ディーリア・オーエンズの『ザリガニの鳴くところ』(早川書房)を想起する人もいるかもしれない。あちらも文芸色豊かなミステリーの傑作で、オーエンズ作品では、父親と兄などに捨てられた孤独な少女が迫害され、貧困にあえぎながら生きていく姿が活写されていた。本書のルーはそれに比べたらまだ大人しいと思うかもしれないが、しかし命懸けのルーの戦いは終盤に用意されていて、生命の危機という点では本書のほうがはるかに強いだろう。
しかし見どころは終盤だけではない。繰り返すが、過去の「銃弾」のエピソード集は、銃撃戦を交えつつも、実にエモーショナルで、詩的で、ときに象徴的ですらある。鮮烈な場面の連続といっていい。過去の秘密を明らかにする場面なので曖昧に書くけれど、ホーリーとリリーのキスの深遠さと愛しい傷をめぐる会話も(「銃弾#5」)、ギャングの妻が語る花のような骨の模様に神様を信じる話も(「銃弾#7、#8、#9」)、リリーが失われていくことを一つ一つ確かめる場面も(同)、ホーリーが死の淵へと誘い込まれる場面も(「銃弾#11」)、何と心に響く名場面だろうか。「銃弾#3」に出てくる片目が濁ったギャングの妻が語る手紙やウェディングドレスの話ですら、愛の神々しさを伝えてはっとするほどだ。醜悪で汚らしいものからでさえ、ハンナ・ティンティは、一滴の美と愛をつかみとる。至るところから、人生の詩を汲み上げて僕らの心をふるわせるのである。
「銃弾#2」がそうであるように、一つひとつが独立して読めるけれど、クライム・サスペンスのなかにホーリーとリリーとの恋愛小説、ルーを交えての家族小説、さらに成長をたどる青春小説の輝きが重なり合い、小説としての厚みをもつことになる。
『ザリガニの鳴くところ』では、湿地の自然や動物たちが鮮やかな風景の中で象徴的に捉えられていたが、本書では重要な場面で鯨が登場して、生命の危機と再生、あるいは孤高の生き方の美しさを見せつけて、きわめて印象深い。ギャングたちの銃撃戦ですら名場面に昇華され(グラフィカルな活劇と独特の表現による負傷の感覚など)、ときに荘厳な響きをもち、読者の胸を激しくうつ。「まるで交響楽のような驚嘆すべき一冊」(ニューヨーク・タイムズ)という賛辞は決して誇張ではない。いつまでも心に残る作品であり、おりにふれて読み返したくなる作品なのではないか。
最後に本書刊行時の情報も書いておこう。本書は、二〇一八年のアメリカ探偵作家クラブ賞(エドガー賞)最優秀長篇賞にノミネートされたものの受賞には至らなかった。受賞作はアッティカ・ロック『ブルーバード、ブルーバード』だが、はるかに本書のほうが優れている。日本では二〇二一年に翻訳刊行され、「このミステリーがすごい!」と「ミステリが読みたい」で第四位、「週刊文春ミステリーベスト10」では第五位に入ったけれど、さまざまなジャンルをもつ物語の面白さ、端役の一人一人までめざましいキャラクターの鮮やかさ、そして硬質な文体の質の高さからいっても、第一位にふさわしい。それほどの傑作である。
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