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発売目前! 白石一文、書き下ろし最新刊『投身』 冒頭を無料公開

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白石 一文

『投身』(白石 一文)


ジャンル : #小説

『投身』(白石 一文)

1

 

 店を出ると雨は上がり、空の真ん中に白い月が出ていた。

「あら、月」

 見送りに出てきた順子ママが言う。

「ほんとだ」

 二階堂さんが少し億劫そうに空を見上げながら呟いた。

「今日もずっと雨だって天気予報で言ってたのに」

「いや、この分だと晴れるね」

 二階堂さんの口調は、やれやれまた暑くなるのか、という感じだった。

 飲んでいるときも「七十を過ぎると冬より夏だよ。骨身に芯からこたえるのは……」としきりにこぼしていたのだ。

 今年の夏はとびきり早かった。梅雨はどこかへ行ってしまい、六月末から猛暑日が続いた。全国各所で「観測史上初」の最高気温が記録されたのだ。

 二階堂さんはこの四月に七十三歳になった。同じ四月に四十九歳になった旭とはちょうど二回り違いだ。

 二階堂さんは二言目には「歳だ、歳だ」と言うが、ちっとも老けていない。見た目でなら優に一回り分以上は若い。生活の労苦とは生涯無縁のお金持ちだし、還暦を過ぎた頃に家業の不動産業を長男に代替わりして、悠々自適の暮らしがすっかり板に付いていた。

 旭は何も言わずに左側が大きく欠けた三日月を眺めている。

 輪郭はくっきりしていて、仄かな月光に照らされた周囲の空に雲らしきものは見えない。たしかに今日は晴天だろう。

「ママ、これ」

 二階堂さんが手にしていた傘を差し出す。

 順子ママは黙って受け取り、

「旭さんのも預かっておこうか?」

 旭に訊ねる。

「私は大丈夫」

 そう言って、きれいに畳んだ自分の傘を抱き締めるようにした。ちょっと酔ってるな、と我ながら思う。

「今夜にでもまた寄るよ」

 二階堂さんは言うと、

「旭ちゃん、行こうか」

 促してきた。

 明かりの乏しくなった商店街を二階堂さんと雨靴で歩く。店を出るとき確かめたら時刻は午前二時ちょうどだった。かつては二人で朝まで飲み明かすこともあったのだから、二時はまだ宵の口か。とはいえ、今夜も二階堂さんと旭がスナック「輪」の最後の客だった。

 そういえば一番最後に夜明けまで飲んだのはいつだったろう?

 ふと思う。

 コロナになってからはそれどころじゃなかったので、早くて三年前? それとも四年前?

 なるほど二階堂さんもコロナのあいだにいつの間にか歳を取ったのかも知れない。もちろん私もだけど……。

「輪」は三ツ又商店街の中ほどにあるので、身代わり地蔵尊までは百メートルくらいだった。大井町界隈で生まれ育った二階堂さんは、地蔵尊のお堂の前に来ると必ず立ち止まって合掌礼拝する。彼と一緒の折は旭も並んで手を合わせるのだが、ふだん通りがかったときは何もしなかった。

 その小さな地蔵堂まで二人でゆっくりと歩く。

「モトキ」を閉めて「輪」に向かったときは雨だった。傘無しだとぐっしょり濡れそうな目の細かい雨だ。区役所そばの「モトキ」から「輪」までは歩いて十分程度。それでも雨靴に履き替えて正解だったのだ。

 二階堂さんが住む池上通り沿いのマンションからだと五分くらいのものだが、彼もレインシューズを履いてきていた。そういうところはいつもながら万事抜かりがない。

「この町の連中はうちの親父のことばかり褒めるけどね、親父の事業を倍の倍にしたのは僕なんだよ」

 大井町で戦前から不動産業を営んでいた二階堂誠一氏は、空襲で焼け野原になった品川の町の復興に大活躍し、最後は品川区の名誉区民にもなった人だった。昭和二十八年、阪急大井店の開店にあわせて始まった夏の風物詩「大井どんたくまつり」を有志を募って起ち上げたのも誠一氏で、区の歴史館には写真も飾ってあるという。

「親父さんって、息子の昭一さんにとってはどんな存在なんですか?」

 いつぞや「輪」で常連の一人に訊かれて、

「うちの親父はね、いなくなっても煙ったい人」

 二階堂さんは即座にそう答えていたが、“大井町のドン”とも呼ばれた初代ととかく比べられてきた二代目の屈折が「昭一さん」にはある。

 二階堂さんとは知り合ってもう九年目だった。ずっと彼を見てきて、父親の事業を「倍の倍にした」というのは大袈裟ではなかろうと旭は思っている。

 宿場町として栄えた品川の生まれらしく二階堂さんはあけっぴろげで世話好きだが、一方で念入りの用心深さも兼ね備えていた。

 これは区役所で収入役をやっている内山田さんから以前聞いた話だが、二階堂さんは八〇年代後半の不動産バブル期に社長の誠一氏を諫めて、決して投機的な取引に手を出させなかったらしい。

「バブルがはじけたあと、そのおかげで二階堂地所は一人勝ちができたんだよ」

「モトキ」の常連の一人である内山田さんは言っていた。

 九〇年代に入るとほどなく先代は会長に上がり、専務だった二階堂さんが社長の椅子に座った。「倍の倍」はきっとそこから始まったのだと思う。

「夜風は結構涼しいじゃないですか」

「そう?」

 二階堂さんはゆっくりと歩を進めながら首を傾げる。八月も今日で終わりだった。

「涼しいですよ」

 傘を右手に持って旭は手を広げる。

「そうかなあ。雨も降ったし、空気が湿気てるよ」

「それがかえっていいんです」

 二階堂さんは何も返してこなかった。

「なんだかねえ……」

 しばらくして呟くように言う。

「春とか秋とか、いつの間にかなくなっちゃったねえ」

 旭は黙って続きの言葉を待つ。

「酷暑の夏が終わって長雨や台風がやってきて、気づいてみたらあっと言う間に凍てつく冬になって、厳寒の冬が終わってまた長雨や台風がやってきて、それでもって気づいてみたらまた猛暑の夏だろ。この国はいつの間にかそんな国になっちまったよ」

「でも、桜だって毎年咲くし、秋には紅葉も色づきますよ」

「まあねえ」

 そんなとりとめないやりとりをしているうちに「大井三ツ又」の交差点に着いた。ここで三本道はそれぞれ太い二つの道に分かれる。向かって右が湘南新宿ラインの「西大井」に繫がる光学通り、左が京浜東北線の「大森」に繫がる池上通りだった。

 例によって二階堂さんが身代わり地蔵尊のお堂の前に直立し、ズボンの尻ポケットから札入れを抜くと千円札を一枚出して、小ぶりの賽銭箱に入れる。

 隣に立った旭もバッグの小銭入れから百円玉を取って賽銭箱に放った。

 めずらしく先に合掌を解いていた二階堂さんが、

「なんてお願いしたの?」

 と訊いてきた。

「二階堂さんは?」

「僕は、早くちゃんとした秋が訪れますようにってね」

「私は、もうこれ以上、仕入れ値が嵩みませんようにってお願いしました」

「そんなに値上がりしてるの?」

 ちょっと意外そうに二階堂さんが言う。旭は大きく頷く。

「お肉も野菜もパスタもケチャップもドレッシングも何でもかんでも。特に高くなっているのは油なんですけど」

「そうなんだ」

「だからといってうちみたいな店はすぐに値上げってわけにはいきませんから」

 旭が、「ハンバーグとナポリタンの店 モトキ」を始めたのは七年前、二〇一五年(平成二十七年)の五月だった。

「だけど、戦争ももうしばらく続くみたいだし、物価はまだまだ上がるかもしれないよ」

「そんなの困ります」

 二月末に始まったウクライナとロシアの戦争は一向に終わる気配がない。

「せっかくお客さんも戻ってきてくれたのに、いま値上げってわけにもいかないし」

「うーん」

 旭にとって二階堂さんは、店舗と住居の両方の大家さんでもある。

「でも、家賃を下げてくれなんて言いませんからご心配なく。いまより安くなったらますます磁一さんに勘繰られそうです」

 磁一さんというのは二階堂さんの長男で、二階堂地所の現社長だった。彼はどういうわけだか最初から旭のことを父親の愛人と疑っているのだ。

 とはいえ、その磁一さんも「モトキ」の常連の一人ではある。

 二階堂さんは若い頃は陶芸家を目指していたのだという。父親の猛反対で断念し、大学卒業後、銀行勤めを経て二階堂地所に入社した。

 長男を磁一、長女を陶子と名付けたのは、陶芸家志望だった頃のせめてもの名残りなのだと本人が言っている。

「磁一のやつ、まだそんなことを旭ちゃんに言ってるのか?」

「最近はヘンな言い方はしないけど、でも、いまでも充分に怪しんでいるとは思います」

「まったく……」

 半分愉快そうな顔で毒づくのはいつも通りだった。

「大井三又」交差点の長い歩道橋を渡って池上通り沿いに建つ十五階建てのマンションの入口まで二階堂さんを送っていく。

 深夜とはいえ街灯は明るく、車もたくさん行き交っていた。歩道橋の上から眺めると通行人の姿もちらほら見える。

 五分と歩かずにエントランスに到着した。

 この賃貸マンションの最上階が二階堂さんの自宅だった。むろんマンションのオーナーは二階堂さんだ。

 磁一さん一家は御殿山の高層マンションに住み、長女の陶子さん一家は高輪にある旦那さんの実家で暮らしている。なので、二階堂さんは十年前に奥さんを亡くして以降、ずっとこのマンションに一人住まいなのだった。

「じゃあ、おやすみなさい」

 旭がエントランスのドアの前で軽くお辞儀をすると、

「旭ちゃん、今度の土日のどっちかで時間くれないかな」

 普段はあっさり木目調の扉の向こうに消える二階堂さんが言った。

「いいですよ。土日のどっちがいいですか?」

「どっちでもいいよ。例の洗車男が来ない日にすればいい」

「だったら土曜日にしましょうか」

「ああ」

 二階堂さんは頷き、

「夕方、僕の部屋で飯でも食おう。うな重でも用意しておくから」

 そう言って、ビルの上の方を指さしてみせる。

 十五階の部屋には何度か上がったこともあるが、それにしても滅多にないことだった。何かあらたまった話でもあるのだろうか、と旭は思う。

「モトキ」は土日定休なので週末はだいたいヒマだった。

 ただ、ここ一年ばかりは土日のどちらかで藤光が車を洗いに来ることが多いので、その日は家にいる必要があった。二階堂さんの言う「例の洗車男」というのは藤光のことで、彼と二階堂さんとは一度だけ顔を合わせたことがある。

 旭が「土曜日」と言ったのは、週間予報では日曜日に晴れマークがついているのを憶えていたからだ。

 空模様に敏感なのは商売柄だが、藤光のせいで最近は土日の天気まで気になるようになってしまった。

 

2

 

 昨日は午後から小雨交じりの曇天に変わり、二階堂さんのマンションを訪ねた夕暮れ時には半袖だとひんやりするほどの風が吹いていたが、今日は朝からよく晴れて真夏を思わせるような陽気だった。

 温暖化のせいなのか、二階堂さんの言うように日本の四季はすっかりメリハリを失ってしまった気がする。

 旭の記憶でも、むかしはお盆休みが過ぎるとだいぶ暑さもやわらいで、学校が始まる頃にはもう秋の気配が感じられたものだ。

 デパートやブティックのショーウインドーに秋物が並び出す光景に違和感を覚えるようになったのは一体何年前くらいからだろう?

 今夏は、パキスタンでは国土の三分の一が冠水する大雨が降り、ヨーロッパでは熱波のために過去五百年で最悪の干ばつらしい。ロンドンの最高気温は四十度を超え、東京都心の猛暑日も観測史上最多の十六日を記録したそうだ。

 そしてそんな異常気象のさなかにロシアとウクライナは半年以上も戦争を続けているし、新型コロナのパンデミックも終わりが見えずに三年目に入っている。そういえばこの七月には安倍元総理が参議院選挙の遊説中に旧統一教会に恨みを持つ男に射殺されたのだった。

 昨夜、二階堂さんが、

「こんな時代だしね、多少の強がりも交えて言うと、そろそろ潮時のような気がしているんだ。ここ十年くらいは、もうそんなに長く生きたいと思わなかったしね。正直な話、これからどんどん悪くなっていく世の中を黙って見ているなんてうんざりなんだよ」

 と口にしたとき、こころのなかで旭は深く同意していた。

 潮時というのなら自分なんてとっくのむかしに潮時だ――そう思ったのだ。

 人はいずれ死ぬ。どんなに恵まれた人生を与えられたとしても、最後は絶対に死ぬ。生き方は選べても死に方は選べない。自分がいつ、どんな形で死ぬかは誰にも分からないのだ。だとすれば、二階堂さんの昨夜の告白もさして驚くべきものではないし、その要求も別段異常なものでもないのだろう。それに何より、彼とのあいだには歴とした約束が交わされ、提示された交換条件はこの九年近く、しっかりと守られてきたのである。

 午前十一時過ぎに藤光からいつものLINEが入った。

「カツ丼いりますか?」

 それだけ。

 北千住の自宅を出るときにLINEを寄越すので、あと一時間ほどでここにやって来る。それもいつもの通りだろう。

「はい」

 と打って画面を閉じる。返事がないのはこの一年で分かっていた。

 藤光は面と向かっても余り口をきかないが、LINEのやりとりでも同じだった。根っからの無口ということかもしれないが、むかしはそうではなかった気もする。

 妹の麗と一緒になる前後はどちらかというと快活でよく喋る印象ではなかったろうか?

 あれは麗をモノにするためのニセの人格だったのか、それともあっちがホンモノで、いまの彼がニセモノなのだろうか?

 麗や藤光とたまに顔を合わせていたのは、日向や陽介が生まれるまでで、そのあとは藤光の札幌転勤などもあってすっかり疎遠になった。

 急に付き合いが復活したのはここ一年なので、藤光の寡黙が生来のものかどうかの判別は旭にはつかない。

 正午のニュースが始まってすぐに駐車場に車がすべり込む音がした。ほどなくインターホンのチャイムが鳴る。テレビを消して旭は玄関に向かった。

 ダイニングキッチンのテーブルで藤光と差し向かいでカツ丼を食べた。

 旭は缶ビールを飲むが藤光は、これも自身で買ってきたペットボトルのウーロン茶だ。彼はアルコールは余り口にしない。むかしはたまに飲んでいたようだが、洗車が趣味になって以降はほとんど飲まなくなったと言っていた。

「いつなんどき車を洗いたくなるか分からないからね」

「夜だったら飲んでもいいじゃない。どうせ洗車場も開いていないんだし」

「それがそうでもないんだ。松戸あたりまで飛ばせば二十四時間やってるところもあるから」

「じゃあ、ヒカル君、夜中に車を洗いに行ったりするんだ」

「たまにだけどね。眠れないときとか」

「うちは夜は駄目だよ、近所迷惑だし」

「そんなの分かってるよ」

 旭は藤光のことを「ヒカル君」と呼んでいる。麗がそう呼んでいるので自然にそうなった。

 藤光の名前は「種村藤光」。

 藤光という名前は地味に変わっていると思う。ちなみに四つ違いの兄は銀光で、これで「かねみつ」と読むらしい。実家は笠間の栗農家で、そこは長男の銀光が継いでいる。藤光の方は都内の私立大学を出るとそのまま厨房機器の製造販売会社に就職し、同期入社の麗とはそこで知り合った。短大出の麗は藤光の二つ年下である。

「札幌にいた頃は、夜もしょっちゅう洗いに行ってたんだけどね」

 懐かしそうな表情で藤光が言う。洗車のこととなると俄然饒舌になる。

「そうなんだ」

 車自体にまるきり興味のない、ほとんどペーパードライバーの旭にすれば、「洗車」が趣味という人間の存在自体が謎でもあった。

「北海道は二十四時間営業の洗車場がいっぱいあるんだ」

「へぇー。やっぱり広いからね、北海道は」

 当然、会話はそれ以上は続かない。

 今日の藤光は例によって黙々とカツ丼を頰ばっている。

 洗車に来るようになってしばらくした頃に、このカツ丼を振る舞うと、いたく気に入ったらしかった。それ以来、車を洗いにくるときは決まって「カツ丼いりますか?」とLINEで問い合わせてくるようになった。

 旭が「今日はいりません」と返信すると自分の分だけ買ってくる。

 カツ丼は大井町の西友で売っている「だし香るロースカツ重」で一つ四百円ちょっとの商品だ。もともと旭も好物にしていたから出したのだが、それにしても彼がこんなにハマるとは思っていなかった。

 旭は若い頃から料理が苦手だった。

 苦手というよりも好きではなかった。両親が三鷹で定食屋を営んでいて、いつも厨房で鍋をゆすり、フライパンを振っている姿ばかり見ていたせいか、料理はあくまで仕事であって、旭にすれば日常とはなり得ない種類のものだった。

 だから、この歳になっても自分で作るのはハンバーグとナポリタンの二つだけで、いまではそれをタネに商売をやっている。

 普段の食事はほぼすべて出来合いのもので済ませていた。家ではそばやうどんを茹でるくらいで、台所に調理器具はほとんど置いていない。炊飯器もなかった。ご飯が食べたくなったら店の残りを持って帰るようにしている。

 カツ丼を食べ終わると、藤光は、ベランダから庭に出た。

 旭の借りている一戸建ては築三十年余りの古い平屋だが、かわりに庭と屋根付きの駐車場がついていた。ベランダの向こうが広い芝生で、その芝生の一部を潰す形で左隅に駐車場が設えられている。

 いまはその駐車場に藤光の白いBMWがとまっていた。

 芝生の中央までサンダル履きで歩くと、藤光はしばらく空を見上げていた。

 五分ほどでダイニングルームに戻ってくる。

「何か先に観る?」

 と訊いてきた。

 どうやらもう少し雲が出るのを待つつもりのようだ。洗車マニアのあいだでは、「洗車はくもりの日」と決まっているらしい。

「晴れて暑い日は、ボディの水分があっと言う間に干上がるからね。シャンプーの水はもちろんだけどすすぎの水でも乾くと速攻水アカに変化しちゃうんだ」

 要するに丁寧な拭き上げのためには曇り空がどうしても必要なのだという。

 藤光の洗車はおおよそ三時間くらいはかかる。ホイール洗浄→タイヤ洗浄→ボディとウインドー洗浄→ホイールとタイヤのコーティング→ボディのコーティングとワックスという順番で作業が進み、その過程のなかで毎回、「今日はどこを重点的に攻めるか」というテーマがあるのだそうだ。

 今日はホイール、今日はタイヤ、今日は細かいパーツ、今日は窓の油膜取り、今日はボディ磨き――そうやって幾つかのテーマを順繰りでこなしていくうちにまた最初のテーマへと回帰するらしい。

「だから、洗車に終わりはないんだよね」

 きれいに仕上がって、ピカピカになった愛車を眺めながら藤光はときどきそんなふうに洩らす。そのときの表情は満足げでもあり、一方でどこか苦行僧めいた雰囲気もある。

「ヒカル君にとっての洗車って修行みたいなものだね」

 一度そう言うと、

「たしかに」

 藤光は納得顔で頷いていた。

 三時間のメニューが終わっても、インテリアの清掃やフロアマットの洗浄、エンジンルームの汚れ取りなどが追加されると洗車時間はさらに延びる。

 先々月、七月の半ばにやって来たときは「年に数日とない絶好の洗車日和」だったらしく、午前十時頃に着いて、夕方、日が暮れるまでずっと車を磨いていた。

 結局、その日は、Netflixを一緒に観るでもなく、彼は作業が終わるとそそくさと引きあげていったのだった。

「時間はどれくらいあるの?」

「二時間くらいは大丈夫だよ」

 藤光が言う。

「じゃあ、ブラッド・レッド・スカイを観ていい?」

 先週来たときにも誘ったのだが、その日は藤光の洗車が長引いて一時間弱のドラマを一本観ることしかできなかったのだ。

「ブラッド・レッド・スカイ」はハイジャックされた旅客機の中で、怪物に変身した乗客の女性と犯人グループとが血みどろの戦いを繰り広げるというパニックホラー映画だ。

「いいよ」

 藤光は一度、ベランダの向こうの空へ視線をやってから頷く。

 一年ほど前、ひょんなことから彼が洗車に来るようになって、駐車場を使わせる交換条件というわけでもなかったが、Netflixのドラマや映画を一緒に観て貰うことにしたのだった。

 旭の休日のたのしみと言えば、シャツ作りと、それに映画やドラマ鑑賞だった。シャツ作りの方は会社員時代からの趣味なのでかれこれ二十年余りに及んでいる。いまではプレゼントする同僚や取引相手、友人、恋人もいないし、店に立つときのユニフォームとして年に何着か縫うくらいだったから、ここ数年の唯一の娯楽は映画やドラマで、ところがコロナが始まってからは週末の映画館通いを封じられ、もっぱらNetflixに頼るしかなくなってしまったのだ。

 Netflixを使い始めて一つ大きな問題が生じた。

 ホラー系ないしは残酷なシーンの出てくる作品を観ることができなくなったのである。もとからホラーやスプラッターはさほど好きではなかったが、それでもいまの映画やドラマには多かれ少なかれそのようなシーンが織り交ぜられている。

 映画館で大勢の観客と一緒に鑑賞している分にはまるで気にならなかったのが、一人きりの部屋で視聴するようになるとそっち系のシーンがあとあとまで尾を引いて、悪夢を見たり夜中の小さな物音が気になって寝付けなかったりと実害が出るほどになった。

 マジでヤバイな、と思ったのが去年の九月に「イカゲーム」を観始めたときで、第一話を観終えたところで断念せざるを得なかった。この程度の“残酷レベル”で駄目だとすると大抵の作品が引っかかってしまう。これは困ったと途方に暮れていたところにちょうど藤光がやって来るようになったのだ。

 彼に頼んで、一緒に「イカゲーム」を一話から三話まで続けて観て貰った。するとその晩は悪夢にうなされることもなく、夜中に目を覚ますこともなかった。

 それからも藤光と一緒だと「スマホを落としただけなのに」も「着信アリ」も「今、私たちの学校は…」も「新感染」もちゃんと最後まで観ることができた。そして、そうやって何度か付き合って貰っているうちに洗車の日は、車を洗う前後どちらかにNetflixのドラマや映画を二人で観るのが定番になったのである。

「ねえさん、どっかで晩御飯でも食べない?」

 映画を観終えたあとすぐに取りかかった作業が終わり、洗面所で手を洗っていた藤光がダイニングに戻って声を掛けてくる。時計の針はとうに五時を回っている。

「時間はあるの?」

 秋用のシャツを縫っていた旭が手を止めて藤光の方を見る。

 ダイニングキッチンの隣が引き戸の嵌った八畳ほどのリビングで、そこに絨毯を敷き詰め、テレビと二人掛けのソファ、ローテーブルを置いていた。シャツを縫うときはいつもソファに座って作業する。映画やドラマのときはそこに藤光と並んで座って観ていた。

 この家にはダイニングとリビング以外に六畳ほどの部屋が二つあって、その二室は玄関へと通ずる廊下の右側に並んでいる。一つは寝室として使っているが、もう一つは本棚を置いただけの空き部屋だった。洗面所、浴室、トイレは廊下の反対側に配置されている。

 もともとここは二階堂さんの父方の親戚のために誠一氏が建てたものだそうだ。その人が大学を出るまで使い、それからは人に貸していたが、旭が借りる以前の十年ほどは借り手も募らずに二階堂さんが書斎代わりに使っていたらしい。

 品川区役所のそばのこんな一等地に庭付きの平屋の一戸建てを長年所有し、それをタダ同然で貸してくれている点からも二階堂さんの財力の大きさが窺われる。

「今夜は麗たちはいないんだ」

 藤光が言う。

「いない?」

「うん。三人で笠間に出かけてる。一泊して明日の夕方戻る予定」

 笠間には藤光の実家があった。

「日向たちの学校は?」

 姪の日向は高二、甥の陽介は中二のはずだった。二人とも元浅草にある同じ中高一貫校に通っている。

「明日は学校の創立記念日で休みらしいよ」

「そうなんだ……」

 笠間には栗農家を継いだ藤光の兄、銀光一家と数年前に脳梗塞を起こしていまは車椅子暮らしの父親が住んでいる。藤光たちの母親は彼が中学のときに亡くなっていた。

 何年も鬱で苦しみ、最後は納屋で縊死したのだという。

「たまにはおごらせて貰うよ」

「じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 旭は縫いかけのシャツをソファにそっと置き、針を針箱に戻すとゆっくりと立ち上がった。

 

3

 

 三又商店街の「天功」に藤光を連れて行った。

 コロナの前はちょくちょく食べに来ていた店だが最近はたまに顔を出す程度だ。美味しい広東料理が安く食べられるので、土日はいつも満席で、ことに行動制限が撤廃された五月以降はコロナ前と変わらぬ活気を取り戻している。

 今夜も満員だったが、家を出る前に電話をしておいたので一番奥のテーブル席を空けて待っていてくれた。

 オーナーシェフの近藤さんは「輪」の常連の一人で、旭とも親しかった。

「天功」は「輪」の二軒隣の店なのだ。

 テーブルに差し向かいで座り、おしぼりを使っていると若い店員が飲み物を訊きにくる。

「私は生ビール」

 旭が言うと、

「僕も同じで」

 藤光が答える。

「お酒はだめでしょう」

 店員が去ってから注意する。

「車の中でひと眠りしてから帰るよ」

 藤光にしてはめずらしいことを言った。

「だったらうちの空いてる部屋を使ってちゃんと寝てちょうだい。布団はあるから」

 麗たちが帰宅するのは明日の夕方と言っていたので今夜は帰る必要もないのだろう。とはいえ、旭の家に彼が泊まったことなどなかった。

「麗と何かあったの?」

「そうでもないけど」

 藤光が曖昧な返事をした。

 中華豆腐、バンバンジー、ニンニクの芽と豚肉の細切り炒めを注文する。生中一杯だけで旭が紹興酒に切り替えると、「グラス二つね」と藤光が店員に声を掛ける。

「ビール一杯だけにしなよ」

 と言うと、

「空いてる部屋でちゃんと寝てから帰れって言ったじゃない」

単行本
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白石一文

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