『見えないドアと鶴の空』は私のデビュー作である。
これが出版されたのは二〇〇四(平成十六)年二月だったが、それより十二年前の一九九二(平成四)年に集英社の文芸誌「すばる」に発表されている。当時、私は三十四歳。文藝春秋の編集者だった。
この作品は、「鶴」というタイトルで「すばる文学賞」に応募したものだ。
受賞はならなかったが、佳作に入って賞金の半額と雑誌掲載権を与えられ、それで「すばる」に受賞作とともに掲載されたのである。
掲載時に「惑う朝」というタイトルへの変更を求められ、応じた。いまにして思えば「鶴」のままにすればよかったと後悔しているが、当時は自身が編集者でもあったから、担当編集者への一定の信頼が自らに鑑みてあったのだ。
授賞式にも出席した。その頃も現在と同様、柴田錬三郎賞や小説すばる新人賞と同じ日に贈賞が行なわれていて、たまたま柴田錬三郎賞の受賞者は私の父親だった。受賞者控え室に入ると奥にスーツ姿の父が座っていて非常に居心地が悪かったのを憶えている。
「鶴」は発表されたものの何の反響もなかった。
記憶に残っていることと言えば、授賞式の何日か前に会社の上司が電話してきて、
「いっちゃん、受賞作を読んだよ」
と言ったあと、「悪いけど今からでも受賞を辞退してくれないか」と頼んできたことだった。ちなみに私は若い頃から親しい人たちに「いっちゃん」と呼ばれている。
上司はなかでも取り分け親しい人の一人で、私のことを心配してくれたのだ。
文藝春秋は菊池寛が創立した・文士の会社・(二代目社長も佐佐木茂索)だったが、社員がものを書くことをあまり歓迎しない社風だった。
ただ、このとき件の上司はこう言ってくれた。
「面白かったよ。いっちゃんはきっとそのうち直木賞くらいは貰えるだろうけど、でもそれじゃあもったいないと僕は思うんだ」
むろん受賞を辞退させるためのリップサービスだったのだろうが、しかし、彼は非常に才能にあふれる編集者だったので、そんなふうに言われて私は嬉しかった。
もう一つ、記憶に残っているのは、しばらくして石原慎太郎氏の担当になったとき、選考委員だった石原さんに「きみの佳作受賞は俺が強く推したんだぞ。憶えておけよ」と言われたことだった。例のこわいようなかわいいような人懐っこい笑みでそう言われた私は、この人のために誠心誠意尽くそうと心に誓った。
佳作だったとはいえ、応募総数千数百本の中から最後の二作に選ばれるのは至難の業に近い。自分の書いた小説を推してくれた人は、私にとって掛け値なしの恩人に違いなかった。
新人賞の書き手として「すばる」という発表舞台を得たのが嬉しかった。
それからは編集者の仕事を続けながらせっせと小説を書いた。
「星条旗」というタイトルの三百枚くらいの作品を書き上げ、さっそくすばる編集部に持ち込んだ。読んでくれた担当者と編集長は気に入ってくれて、すんなりと掲載が決まる。
学生時代からほとんど毎日(「週刊文春」編集部の頃はさすがに無理だった)書いていた私にすれば三十半ばまでくすぶっていたのは予想外の蹉跌と言ってよかった。その分を、いまから取り返すのだ、と世間知らずにも息巻いていたのだ。
ところが世の中は一筋縄ではいかない。
掲載が決まりゲラにまでなったところで、すばる編集部に不祥事が勃発。編集長とデスクだった私の担当者が共に席を追われてしまい、新しい編集長が着任したのである。新編集長は「星条旗」を読んで掲載を却下。結局、渾身の一作と思っていたそれはお蔵入りの憂き目を見てしまう。
思えばこれが躓きの石だった。
それからは何を書いてもボツを食らい、佳作の「鶴」も単行本化はされず、私の意欲は空回りするばかり。集英社以外にもツテを頼って他の版元の文芸編集者に作品を読んで貰ったが、二十代に書き上げ、どの新人賞にも引っかからず(一次予選にも残らなかった)、それでもずっと改稿を重ねていた『僕のなかの壊れていない部分』(文春文庫)も『不自由な心』(角川文庫)も、「こういう小説を書いているような人は、人間として信用できない」「人間に番号を振るなんて人としての心を失っている」と散々な言われようだった。
ある日、とある文芸編集者に「不自由な心」をそんなふうに評され、その場では「そうかも知れませんね」と引き下がってきたものの、夜中にあらためて読み直してみて、明け方まで悔しくて眠れないという生まれて初めての経験をした。
ならば取材で知悉している政治の世界を舞台にした長編で勝負しようと思い立ち、アパートまで借りて書き上げた『すぐそばの彼方』(角川文庫)も何人かの編集者に読んで貰ったが、まったく相手にされなかった。
お蔵入りをした「星条旗」は、宮城谷昌光さんを発掘したことで有名な海越出版社の天野作市さんに持ち込んでみると、高く評価してくれて、すぐに本にしたいと言ってくれた。そうやって私の初めての本が彼の手で世に送り出されることになった。「星条旗」は改題し、他に、やはりお蔵入りしていた「花束」と「砂の城」(ともに文春文庫『草にすわる』所収)と併せて一冊とした。
それが一九九四(平成六)年十一月に出版した『第二の世界』(海越出版社)である。
著者名はすばる文学賞の佳作となったときに使っていた「瀧口明」。「瀧口」は私が若い頃に惑溺した作家、滝口康彦さんにあやかって付け、「明」は同年代の男性に最も多い名前の一つであることから選んだのだった。
その『第二の世界』もまったく何の反応も呼び起こすことはなかった。
ただ、たった一人だけ収録の一作「花束」を褒めてくれた人がいた。文春の平尾隆弘さんで、彼とは「文藝春秋」編集部で席を同じくしたこともあったのだが、名編集者として鳴らした平尾さんに会社の階段で不意に呼び止められて、「白石君、あの『花束』という小説は凄く良かったよ」と言われたことは一生忘れないと思う。
他社の誰に読んで貰ってもけんもほろろの扱いを受けるので、思い余って「卵の夢」(『不自由な心』所収)という作品を、「実は、これ、僕の大学時代の親友が書いた小説なんですが……」と文春の文芸編集者に読んで貰ったこともあった。しばらくして、「読んだよ」と言われ、
「彼は、作家は無理だね。やめた方がいいと伝えるのが親切だよ」
そうあっさり告げられた。
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