〈「この世に、これほど恐ろしい大将がいたのか」上杉謙信の猛攻、武田信玄は相手の味方を寝返らせ…北陸で起きた知られざる“代理戦争”〉から続く
戦国小説集『化かしもの 戦国謀将奇譚』の著者・簔輪諒が、小説の舞台裏を戦国コラムで案内する連載の第2回です。(全7回の2回目/前回を読む)
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元亀元年(1570)6月、織田信長は同盟者である徳川家康と共に、近江(滋賀県)北部の浅井長政を攻めるべく軍を発した。
浅井方には、越前(福井県東部)の大名・朝倉氏が加勢。28日、長政の本拠・小谷城の南方を流れる姉川の河畔で、織田・徳川軍と浅井・朝倉軍は激突した。世にいう「姉川の戦い」だ。
――押しつ返しつ散々に入り乱れ、黒煙立て、鎬(しのぎ)を削り、鍔(つば)を割り
と、『信長公記』にも記されたほどに激しい戦闘が続き、やがて、織田・徳川軍が勝利する。浅井・朝倉軍は総崩れとなったが、そんな中、踏みとどまって抗戦を続ける者がいた。
その大柄な武者は、5尺3寸(約160cm)を超える長大な大太刀を振るい、四方八方に群がる敵を次々と斬り伏せた。
彼の名は、真柄十郎左衛門直隆(まがらじゅうろうざえもんなおたか)。「北国無双の大力」と評された、朝倉家の猛将である。
敗勢の中で
朝から始まった姉川の戦いは、一説には4時間ほどで勝敗が決したという。
味方の浅井・朝倉勢が、雪崩(なだれ)を打ったように逃げ散る中、真柄十郎左衛門は大太刀を振るって、織田・徳川勢の追撃を斬り防ぎ続けた。
(……まさか、このような巡り合わせになろうとはな)
返り血にまみれながら、真柄はふと、そんなことを考えたかもしれない。
2年前、現将軍・足利義昭は越前で、朝倉氏の保護下にあった。
義昭は、13代将軍・足利義輝の弟であり、河内(大阪府南東部)の大名・三好氏によって兄を殺され、己の命も危うくなったため京を逃れた。彼は、「再び京へ戻り、将軍に就任して幕府を再興する」という宿願のため、後ろ盾となる大名を探して諸国を流浪し、やがて越前の有力大名である朝倉義景を頼ったのであった。
『朝倉始末記』が伝える逸話によれば、あるとき、義景・義昭が列席した宴の場で、義昭の近臣の一人が、
「朝倉の御家中には、真柄十郎左衛門という大力無双の者がいると聞いておる。天下に隠れなきその力のほど、是非とも拝見したいものじゃ」
と乞うてきた。真柄はこれを受けて、義昭らの御前に進み出ると、従者が数人掛かりでようやく担げるほどの、重く長大な大太刀を二振り用意し、それらを両手に握って軽々と振り回し、剣舞を披露してみせた。その場に居並ぶ者はみな驚嘆し、「四天や夜叉神(鬼神)といえども、これには勝るまい」と舌を巻いた。
朝倉義景は、義昭を手厚く遇した。しかし、彼の志はあくまでも越前を守ることにあったらしく、義昭の求める上洛への協力に応じることはなかった。
その後、義昭は越前を去って織田信長を頼り、その支援によって上洛し、将軍就任を果たす。
しかし、この「義昭・信長政権」と朝倉氏は様々な理由から対立を深め、ついには、義昭の憲を受けた信長と、こうして戦場で相まみえることとなった。
あの越前での宴に列席していた頃は、まさか義昭と敵対することになろうとは、真柄は考えもしなかっただろう。そしてまた、かつて披露した大太刀を、このような負け戦で見せつけることになることも。
だが、彼は己の運命を嘆いたりはしなかったのではないか。人並外れた膂力(りょりょく)も、振るう相手が片田舎の小領主や一揆などでは、乱世に生まれた甲斐がない。天下人の軍勢を相手に、己の武辺を存分に見せつける機会を得たことは、ある意味では僥倖(ぎょうこう)とさえ言えるかもしれなかった。
「我が名は真柄十郎左衛門! 志の者あらば、我と引き組んで勝負せぬか!」
織田・徳川勢に向かってそう声を上げると、数名の武者が槍や太刀を手に、こちらに襲い掛かってきた。真柄は、得意の大太刀でもって、群がる敵の槍を斬り払い、太刀を破壊し、さらには甲冑ごと真っ二つに斬り伏せた。
かつて夜叉神に勝るとさえ言われた剛力の限りを尽くし、獅子奮迅の活躍を見せた彼は、やがて敵将の一人によって討たれ、その首を刎(は)ねられた。
誰が真柄を討ったのか
姉川の戦いの3年後――天正元年(1573)、朝倉氏は滅亡するが、真柄十郎左衛門の武名はその後も長く語り継がれ、多くの浮世絵や講談の題材となった。
その活躍は、時代が下るほどに脚色され、
「朝倉家の真柄十郎左衛門は、徳川家の本多忠勝と一騎打ちを演じ、“北国無双の大力”と“東国無双の武勇”を競い合った末、ついに忠勝に討たれた」
などという筋書きとなって、世間に広く流布した。
無論、上記の話は明らかな創作だが、では、実際のところ、真柄を討ち取ったのは誰なのか。これについては、大きく分けて二つの説がある。
一つは、匂坂吉政(さぎさかよしまさ)が討ったというもの。
匂坂氏(向坂、鷺坂とも)は遠江(静岡県西部)出身の徳川家臣で、吉政は、一族の匂坂式部、匂坂六郎次郎、郎党の山田宗六と共に真柄に攻め掛かり、激戦の末、吉政が首を取ったことが、『寛政譜』『甫庵信長記』などに伝わっている。
もう一つは、青木一重(あおきかずしげ)が討ったというもの。
一重は美濃(岐阜県南部)出身。その生涯で様々な武家のもとを渡り歩き、最終的には大名(麻田藩主)となった人物で、姉川の戦いのときは徳川家にいた。
『信長公記』の首級記録(討取頸之注文)には、「真柄十郎左衛門の首は、青木民部(一重)が討ち取った」との記述がある。また、このとき彼が用いた孫六兼元の太刀は、「青木兼元」あるいは「真柄切(まがらぎり)兼元」と呼ばれて伝来し、現在は重要美術品に指定されている。
ただし、『信長公記』の当該の記述は、同書の成立時のものではなく、のちに補足されたものではないかとの指摘もあり、また、『甫庵信長記』などには「一重が討ったのは、十郎左衛門ではなくその息子」との伝承もある。
「真柄十郎左衛門」は2人いた?
ところで、2020年、福井県立歴史博物館が興味深い新史料を入手した。真柄氏の子孫である、福井藩士・田代氏が記した『真柄氏家記覚書』である。
同書は、姉川の戦いの当事者で、のちに福井藩に仕えた匂坂式部の証言なども踏まえて、真柄一族に伝わる話を述べている。その内容は、以下のようなものである。
「匂坂吉政が討ち取ったのは、真柄備前守という老武者だ」
「匂坂式部曰く、真柄を討ったのは吉政だが、“はじめに槍を付けたのはお主だ。私は助太刀をしたに過ぎぬ”として、首級を式部に譲ったという」
「備前守は若いころ十郎左衛門と名乗っており、たびたび武功を挙げ、その名を世に広く知られていた。のちに十郎左衛門の名を息子に譲り、自らは備前守と称した」
「『甫庵信長記』の中で、備前守にあたる人物が十郎左衛門と記されているのは、以前の名乗りが有名だったからだろう」
『真柄氏家記覚書』はあくまで後世に記されたものであるため、信憑性については注意が必要だが、「真柄十郎左衛門」にあたる人物が二人いたという同書の内容は、匂坂吉政・青木一重のどちらが真柄を討ったのかという謎に、一つの答えを示唆しているともいえよう。
参考:大河内勇介『戦国時代の真柄氏 真柄氏家記覚書の紹介』(「福井県立歴史博物館紀要特別号」収録)2022
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