──中国は明らかに、タガが外れた。
私が最初にその気配を感じたのは、二〇一九年の香港デモのときだった。中国外交部や『環球時報』などの中国メディアが、デモの黒幕はアメリカであると騒ぎ立てると、中国のインターネット空間には瞬く間にそれを裏付けるようなショート動画があふれた。そして、多くの中国人がその「真相」を信じて世論が反発一色に染まったのだ。
やがて、同年末から湖北省武漢市で新型コロナウイルスの感染爆発が始まると、封じ込めに追われた中国はしばらく静かになった。ところが二〇二〇年の春、コロナ禍が世界に拡がるなかで、中国は奇妙な主張をおこなうようになった。
同年三月十二日、当時は中国外交部の報道官だった趙立堅がツイッター(現在は「X」)のアカウントに投稿した一文が、その嚆矢である。
「武漢に伝染病をもたらしたのは米軍かもしれない。透明性を確保せよ! データを公開せよ! アメリカは我々に説明する義務がある!」
荒唐無稽な主張と言っていい。だが、やがて中国国内のメディアが同様の主張を繰り返し、ネット上でもそれを裏付けるかのような動画が盛んに拡散され……。という、毎度おなじみのパターンがはじまった。結果、中国人の多くは現在にいたるまで、新型コロナウイルスのアメリカ起源説を信じるようになっている。
やがて中国の外交官たちは、新疆ウイグル自治区の少数民族問題や日本の福島原発の処理水排出問題といった他の話題にも、同様の極端な言動を取ることが増えた。
西側諸国に向けて従来以上に攻撃的な主張をおこない、自国を過剰に賛美したりディスインフォメーション(意図的な誤情報)の流布を繰り返したりするようになったのだ。
一般に「戦狼外交」と呼ばれる、近年の習近平政権を象徴する対外姿勢である。
近年、こうした姿勢や行動は、公安部や党の統一戦線工作部、宣伝部など、外交部以外の部署でも見られるケースが増えている。彼らの戦狼化は習近平体制が二期目に入った二〇一七年ごろからあらわれはじめ、コロナ禍で海外との接触が減少した二〇二〇年代に入り深刻化した。
日本に上陸した戦狼中国の工作網
その影響は、いまや私たち日本人の身近なところまで及んでいる。
まずは二〇二一年夏ごろを境に、日本国内に赴任する中国の大使や総領事たちが、SNSで戦狼的な情報発信を盛んにおこなうようになった。
また、中国の地方都市の公安局が世界各国に勝手に設置した拠点である、通称「海外派出所」がすくなくとも二カ所、日本国内に存在したことも確認された。こうした拠点が、反党的な中国人留学生を監視したり恫喝を加えたりした事実も明るみに出ている。
近年の習近平政権は、尖閣諸島に加えて沖縄県全体に対しても働きかけを強めはじめた。芸能・マスコミ関係者の日本人を厚遇し、プロパガンダに起用する動きさえある。
「工作」が活発化した背景には、中国から見た日本の位置づけの変化も関係している。
近年の日本は、中国の近隣国では最大規模に近い七十万人以上(日本国籍取得者を含めれば百万人近く)の中国人社会を抱え、中国人観光客の旅行先としても人気が高い。
しかも、習近平政権が独裁色を強めた二〇一七年ごろから、母国に見切りをつけた富豪や著名なマスコミ関係者など中国社会の中枢にいた人たちが、脱出先として日本を選ぶようになった。現代の中国社会に違和感を持っていたり、反党的な思想を抱いていたりする若者の留学先としても、日本が選ばれやすくなっている。
これまで、大陸中国からの資金や人材・情報の逃げ場所としての役割はながらく香港が担ってきたが、二〇二〇年六月に国家安全維持法が施行されて香港の独立性が失われたことで、中国に対抗する西側社会の最前線が日本まで後退してきたという構図もある。
二〇二〇年代の日本は、往年と比べて経済力や国際的地位が低下し、力の論理を信奉する中国の戦狼主義者から「与しやすい」国家として軽侮されている。いっぽう、在日中国人社会の変質と香港の壊滅によって、日本が中国に対して持つ情報的な価値は大きく向上した。ゆえに、中国による大胆な工作や越境介入のターゲットにされやすい状況が生まれている。
本書はこうした「戦狼中国」の対日工作について、当事者に取材したうえで周辺事情を調査し、真相を解明しようと試みたものである。
私は取材の過程で、海外派出所の「所長」とされる人物やその協力者、日本国内外で中国のエージェントから直接的な攻撃を受けた被害者、かつて日本国内で習近平との地域外交に携わった当事者、中国共産党のプロパガンダを担う在中日本人インフルエンサーといった人たちに直接話を聞いた。
加えて、中国の工作活動と関係があるEU諸国やカナダや台湾、さらに沖縄や九州などに足を運び、都内や福岡市内にある中国の在外工作拠点にも踏み込んだ。
一連の取材から見えてきたのは、現実の対日工作のあまりにも意外な、しかし戦慄するべき実態であった──。
「したたかな中国」という幻想
従来、日本では中国の行動を「したたか」であるとみなす先入観が根強く存在してきた。
すなわち、中国は常に『三国志演義』の天才軍師さながらの神謀鬼策をめぐらせており、用意周到に態勢を整えて詰め将棋さながらに対象を追い詰めていくというイメージだ。
しかし、すくなくとも近年の習近平体制の中国に、こうした「智謀」の印象だけを当てはめるのは大きな間違いだ。
私が実情を観察した限り、現実の戦狼中国の工作活動は、むしろ極度に短絡的で垢抜けず、自分たちの行動が相手国にどう受け取られるかという想像力にも欠けている。カネと人海戦術という単純な武器だけで、無為無策のまま正面突撃を繰り返すような、粗雑で直線的な動きが数多く見られる。
彼らの最大の恐ろしさは、合理的な判断や常識による自制が機能せず、「愛国的」な現場の暴走をしばしば容認する予測不可能性と、その結果生じた誤った方針を修正できずに開き直るという、意思決定の硬直性にこそある。
近年の日本は、そうした危険な相手から重点的なターゲットにされている。
──もっとも、取材から見えたのは恐怖ばかりではない。
近年の中国の行動は強引すぎるがゆえに、「穴」も非常に多いのだ。そうした彼らの弱点を知ることで、日本が中国という脅威に対処する方法も見えてくる。
本書は、戦狼中国の対日工作の深刻な実態と、その意外なほどの脆弱性を、現場取材を通じて余すところなく暴露した一冊である。
「はじめに 戦慄すべき対日工作の実態に迫る」より
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