- 2024.01.22
- 読書オンライン
紫式部と藤原道長の関係が象徴する、リアルな恋愛と政略結婚のあいだで――光源氏のモデルは道長ではない?
木村 朗子
人生というもの深く問いかける『源氏物語』を読まない手はない
『平安貴族サバイバル』『女子大で『源氏物語』を読む』などの著作があり、平安文学をとりわけ〈性と権力〉に着目して読み解かれてきた木村朗子さん。新年スタートの大河ドラマ『光る君へ』へのスタートを前に、このたび、『紫式部と男たち』(文春新書)が刊行された。『源氏物語』はいかにして書かれ、読まれたのか。紫式部と同時代を生きた男たちの実像を通じてその歴史を描き出すダイナミックな一冊だ。
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――『源氏物語』の物語世界と、『源氏物語』が描かれた平安宮廷社会とを行き来しながら『源氏物語』の書かれた平安時代を立体的に描き出すような冴えわたった筆致で、読み応え満点の仕上がりですね。摂関政治という色好みが力をもった時代の複雑な面白さというものも、存分に書かれていると思いました。そこでは男たちの権力闘争と女性たちをめぐる性愛の関係が表裏一体になっています。まさに木村さんが長年書かれてきた〈性と権力〉という切り口そのものですよね。
木村 摂関政治の時代、面白いんですよね。男たちが表舞台では権力闘争をしていて、それを宮廷社会で繰り広げられる性愛が下支えしているわけです。そしてその世界は言ってみれば全部賭けですから、サバイバルには呪(まじな)いをする以外に方法がない。だからある意味ではフェアな競争になるわけです。生まれというものをも突破する。どんなに宮中で上に登りつめても子どもを持たずに終わる人もいるし、本当に恋愛を謳歌したいなら逆に中の位にあるほうが自由があって楽しく、恋愛による上昇もあり得る。それなのに政略結婚よりもリアルな恋愛をしたかったのだと描いている『源氏物語』は面白いんですよね。
人生は清く正しく美しくでいいのか? という深い問いかけ
上層貴族が本当の恋愛をしたいと思ったら、自分で見つけ出した人と関係するしかない。結局のところ光源氏の物語の終わりは彼の死ではなく、光源氏の正妻格であった紫の上の死だったことに象徴されるように、紫式部が描きたかったのは光源氏がどれだけ色恋を謳歌したのか、ということではないわけです。最愛の妻がいなくなると光源氏の恋愛物語も終了してしまうのですから。
いまの読者が読むと光源氏のようにチャラチャラしていない一途な男がいいと言うけれども、光源氏が世を去った第三部の宇治十帖に入ると、そのとおりの男主人公が出てきます。薫です。光源氏のようなキラキラの匂宮と薫が出てきますが、薫との恋愛はめちゃくちゃつまらない(笑)。女たちよ、本当に薫でいいんですか? と問うような展開で、実際に薫と匂宮の間で板挟みになった浮舟は、「やっぱり好きなのは匂宮だった」となっている。
女に悲しい思いをさせる男よりも実直な男の方がいい、というようなことは実際に当時も言われていたのかもしれません。物語の前半で、光源氏の実の息子である夕霧もまた実直な男として描かれていて、正妻ともう一人の女性(落葉宮)のもとへ律儀に15日ずつ通う。全然色気がないけれども、これで本当にいいの? というようなことを紫式部は言っているかのよう。あなたは本当に、ただ清く正しく美しくという人生で満足できるの? 人生とはそういうもの? と様々に問いかけてくるわけです。最後の浮舟をめぐる展開をとってみても、『源氏物語』はそういう深いところを描いていると思います。
紫式部は世紀の天才!
――紫式部自身、夫を早くに亡くして宮仕えをし、『源氏物語』を書いた。その人生が作品世界を深くしていると思いますが、他に紫式部の才能はどこにあると思われますか?
木村 とにかく小説的に大冒険をしているところです。どのパートが最初に書かれたのか、どの順序で書かれたのか、真相はわからないのですが、五十四帖という長大な物語の中に緊密に伏線が張られて、それがすべて回収されていく。二十五帖の「蛍」には光源氏と玉鬘が物語談義をする有名な場面がありますが、そこでは紫式部の思いを仮託したような、近代小説を先取りするメタ物語論も展開されています。一条天皇をはじめとして、物語の続きを楽しみに待つ宮中の読者を抱えながら、緊張感ある中でこんな企みができた人は紫式部以外にいないし、現代の小説家たちも、同じようにその才に打たれるんだと思います。
やっぱり世紀の天才なんですよね。そして世紀の天才の作品を読まない手はありません。といってもそれはプルーストの『失われた時を求めて』やトルストイの『戦争と平和』を読まない手はないと言うのと一緒で、多くの人は読み通せないかもしれないけれども、実は家の本棚に置かれていたり、いつかは読み通したいと思っている類の本だと思います。
『源氏物語』を女の物語の系譜で読む
――本書の面白さの一つに、物語同士の響き合い、星座のような関係が描かれているところにあると思いました。光源氏のモデルは誰か、という読み解きにおいても、そこでは先行する物語とのつながりや関係が語られますよね。
木村 『源氏物語』を読むときに、当時の読者も時代のネットワークの中であれやこれやの作品と重ね合わせたり同時に読んだりしているから、私たちも同じように読んでもいいと思うんですね。例えば『紫式部日記』だけを照らし合わせていては見えてこないものがある。『源氏物語』を歴史的に語ろうとすると、『紫式部日記』や藤原道長の日記『御堂関白記』や行成の日記『権記』とのつながりのなかで語るのが一つの定石ですが、私は文学者ですし、女性たちが書いた物語の系譜の中に位置づけて読んでみたい。『和泉式部日記』や藤原道綱の母の『蜻蛉日記』や清少納言の『枕草子』など、『源氏物語』を同時代の別の作品と照らし合わせながら読むと、紫式部が何をしたかったかが見えてくる。そういう当時の物語の文脈を見せたいという思いで書きました。
大学の授業では『蜻蛉日記』や『和泉式部日記』なんかも読むのですが、そのなかでこの二作品はよく似ていて、『和泉式部日記』は『蜻蛉日記』から大きな影響を受けていることがわかります。『蜻蛉日記』が女性の文学作品をおとぎ話から女のリアルを描くものにガラッと転換させたとしたら、『源氏物語』はその先にある作品だから、『蜻蛉日記』との関係で『源氏物語』を読み解く必要があると思ったんです。『蜻蛉日記』のヒーローの兼家は道長のお父さんですしね。
光源氏のモデルは藤原兼家説
木村 光源氏のモデルが道長であるとは誰もが考えたくなるものですが、彼は政治的に常にトップにいて左遷されてなどいない。それを言うなら『蜻蛉日記』に書かれる兼家だろう、と。左遷されてはいないけれど、官職を取られて家に引きこもっていたという意味でも、光源氏は兼家に似ている。『蜻蛉日記』は夫に忘れられた可哀想な妻が鬱々とした心情を描いているというイメージで読まれることが多いですが、本当はそれによって兼家が上がっている。いい男に見える。なぜか色好みの男ということになっている。『大鏡』のような歴史物語を読んでも、権力闘争の中で兼家が策略家としてどのように政治の世界で上り詰めたのかが語られるだけで、そんな記述は出てきません。でも『蜻蛉日記』のなかの兼家はそれとは違ってかっこいい。田辺聖子さんも兼家を優しくてちょっといい男だとおっしゃっていますね。
のちに書かれた藤原為家の側室の阿仏尼(あぶつに)による『十六夜(いざよい)日記』にしても、為家の後妻に入ったときにはすでに正妻の子がいたために、自分の息子の正統性を担保するために書かれた、と読まれてきました。それなのに、『蜻蛉日記』はただ女が日記をしたためたものだとされるのはおかしい。『蜻蛉日記』もまた、兼家の権力の正統性を担保するために書かれていると読めるはずなんです。古典文学を読むときには、こうやって文脈を埋める力も必要で、そこが歴史家とは大きく違うところかもしれません。『光る君へ』でもきっとそうした妄想力が時に発揮されるんじゃないでしょうか。
和歌のやり取りはミュージカル
――『蜻蛉日記』の兼家と作者の和歌のやり取りもそうですが、『源氏物語』に出てくる和歌、藤原道長と和泉式部や紫式部との和歌のやり取りなど、本書の中では和歌がふんだんに挿入されますよね。それによって歌を詠んだ人の思いがリアルに伝わってきました。
木村 しばらく前から大学では和歌も真面目に取りあげるようになったんですが、例えば『和泉式部日記』は和歌で盛り上がっていくミュージカルスタイルなんですよね。和歌の面白さだけはどうしても現代語に訳しきれないので、歌を歌として楽しむにはどうしたらいいかということを考え始めるようになっていったんです。昔の私だったらここまで“和歌推し”ではなかったので、和歌を飛ばして書いたかもしれません。でも今なら和歌の面白さも書くことができる。
私自身、これまで『源氏物語』についての論文を書いたことはなくて、どちらかというと『とりかへばや物語』や『石清水物語』のような『源氏物語』以降の小さい作品について書いてきました。でも論文ではなく、授業で学生たちに講義をしたり、一般書を書いたりする中で、『源氏物語』への向き合い方みたいなものを最近ようやく手に入れた気がしています。
〈藤原行成、紫式部のスカウト。藤原道長は時代を作った名キュレーター《『光る君へ』をもっと楽しむためのブックガイド+α》〉へ続く
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