- 2022.04.13
- 書評
『源氏物語』と『小袖日記』の「世」と「身」と「心」
文:山本 淳子 (平安文学研究者)
『小袖日記』(柴田 よしき)
出典 : #文春文庫
ジャンル :
#エンタメ・ミステリ
名前のない「あたし」
『源氏物語』は、しばしば華やかな恋愛小説と思われがちです。平安時代の宮廷を舞台に、光源氏を始め高貴な登場人物たちの織り成す、優雅な恋物語だと。確かにそれは、一面においては正しいでしょう。が、『源氏物語』の本質は、むしろ別のところにあります。その事実は、本書『小袖日記』が平安時代らしき異界へのワープ小説という一見軽いSFコメディを装いながら、本質は別のところにあるのと同じです。
本書の主人公にして語り手である「あたし」は、固有名詞が明かされません。京都の北野白梅町辺りに住み、和装小物製造販売会社の経理部に勤め、営業部の課長と不倫していたOL。「キャリアウーマン」という呼び名は相応しくなく、どこまでも〈いちOL〉である彼女は、この物語をつぶさに語る饒舌なキャラクターです。が、自分のことは最後までただ「あたし」と呼ぶだけです。作者・柴田よしきは周到にも、そんな名も無い女の物語として『小袖日記』を書いたのだと考えます。どこにでもいる、あなたでもあり私でもあるかもしれない女。それは、『源氏物語』の主な登場人物である女たちが固有名詞を持たず、ただ「女」や「夕顔」などの呼び名でしか呼ばれないことと似ています。
「世」と「身」と「心」とは
さて、紫式部の人と作品を研究している私が本書を読んでいて思い出したのは、「世」と「身」と「心」という言葉でした。紫式部が『源氏物語』で書こうとしたものはいろいろあるでしょう。が、「世」と「身」と「心」こそはすべての根本にあって彼女が自分の人生を賭けて書きたかったものだと、私は考えています。その同じ印象を、本書から受けました。
「世」とは、世界のことです。私たちが生きている「この世」のことだと思って下さい。「令和の世」と言えば、「世」は時代を指します。また「世間」という言葉もあって、しがらみに満ちた人間関係を言います。それこそSFでもない限り私たちはこの世界から外に出られないし、現在以外の世には行けません。また世間と縁を切ることも、まずできません。「世」は私たちを取り囲み束縛しています。そして「身」とは、「世」に束縛されている私たち自身です。切れば血も出る涙も出る「身体」。OLや派遣社員、専業主婦という「身分」。そしてそれぞれが個別の「身の上」を負っています。人生を生きる以上、人は皆「世」に生きる「身」です。
しかし、人には「世」に縛られない部分もあります。それが「心」です。本書の末尾近くで、「あたし」は思います。
人間は、自分が生まれてしまった時代の中、その時代の様々な呪縛にとらわれながら、懸命に幸せを探して生きていくしかないのだから。
これがまさに「世」を生きる「身」と「心」ということです。ただし「心」は、幸せを探すだけではありません。「あたし」は課長と不倫をしました。これは「心」のいたずらです。課長に裏切られやぶれかぶれになって「死にたい」と思いました。それも「心」の暴走です。「心」は一筋縄ではいかない。「あたし」はそれをよく分かっていて、だからこそ「幸せを探して生きていくしかない」と言っているのだと思います。
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