平和の使者か、俗物か? 創価学会のカリスマ池田大作の実像に迫る
2023年11月15日、創価学会名誉会長の池田大作が、老衰のため95歳で死去した。
創価学会は公称会員(信者)数827万世帯を誇る、日本最大の新宗教団体である。その事実上の政治部門として公明党という政党も存在しており、同党は現在自民党と連立を組む、政権与党の一角だ。その意味で、創価学会とは単なる一宗教団体の枠を超え、現在の日本という国のあり方にも大きな影響をおよぼしている組織である。
池田大作は、そうした巨大宗教団体に長年にわたって絶対的カリスマ、指導者として君臨し続けてきた人物で、会員たちからはまさに生き仏、神様のごとく崇拝されてきた存在だった。そして池田は、確たる自分の後継者といったものをつくらないまま、世を去った。
そうなると、政府・自民党との関係も含め、今後の創価学会という巨大組織はどうなっていくのか。広く世間からそういう関心が集まるのは当然の流れだろう。実際に池田の死後、各種のメディアやインターネット上などで、「今後の創価学会はこうなる」などといった憶測、見通しを語る人々が多々現れている。その中には、「今後の創価学会内では大きなクーデターが起こり、組織はバラバラに分裂する」とか、「カリスマを失って創価学会、公明党は崩壊の道をたどり、日本の政界は大混乱に陥る」といった、物騒な見解も散見される。結論から言うと、そうしたことは起こらないというのが筆者の見立てである。ただ、それくらい巨大な存在として認知されていたのが、池田大作という人物だったのだろう。
筆者は宗教界の専門雑誌『宗教問題』の編集長をしている。仕事として、創価学会や公明党の動向を日々、チェックし続けてきた。本書はそうした立場の筆者が、池田大作という人物の死を一つの基点とし、池田および創価学会のこれまでとこれからについて解説し、また思うところをつづったものである。
池田大作および彼に率いられた創価学会という団体が、戦後日本の宗教史上、特筆すべき存在だったことについては疑う余地がない。池田は1928年、東京の貧しい家庭に生まれ、特に高い学歴や社会的地位を得ることもないまま、終戦直後の、まだかなり小規模だった時代の創価学会に入った。だが、その創価学会のなかで池田は、抜群の人間力や組織マネージャーとしての才能を開花させ、1960年に32歳の若さで創価学会会長に就任すると、現在の会員数827万世帯という巨大組織に、創価学会を発展させていった。
池田は間違いなく“宗教団体の指導者”だったわけであるが、多くの日本の新宗教のトップに付随するような、「神秘的な超能力を持っていて、それで信者の病気を治した」などといったエピソードは、ほとんど持っていない。彼はまさに創価学会の布教現場で地べたを這うような活動を徹底して展開し、「貧乏人と病人の集まり」とも呼ばれた、社会的弱者の多かった創価学会員の末端の個々人と直に触れ合いながら、巨大にして強固なコミュニティを戦後の日本につくり上げた、非常にパワフルな男だった。
もちろん、創価学会が急拡大する過程においては、その独善的で強引な布教活動などがしばしば社会問題化し、世間に「創価学会は暴力的な集団だ」というマイナスイメージが浸透することにもなった。
また、公明党は池田の指導によって1964年に設立された創価学会の事実上の政治部門であるが、宗教団体が自前の政党を擁し、現在では連立与党の一角にも食い込んでいる実態は、「政教分離といった観点からどうなのか」といった懸念を、常に社会のなかに生じさせてもきた。
創価学会はなぜ、ほかの日本の宗教団体に比しても過激な布教活動を活発に行い、また政界進出をも目指したのか。その理由は彼らが「一閻浮提広宣流布、王仏冥合、国立戒壇建立」という、いわば政教一致体制の確立のようなことを目指して動いてきた宗教団体だったからである。創価学会および公明党の巨大化は、彼らの活動の根底にある思想に対する強烈な嫌悪感を、社会のなかに生んでいくことにもつながった。特に公明党が結成された直後の1960年代後半は、社会における創価学会バッシングの波が最高潮に達した時期でもあった。そして1970年、池田はそういうバッシングにいわば屈する形で、創価学会および公明党の方針を大きく転換する。以後は国際平和への貢献、社会福祉の充実を目指す、一種のリベラル系運動団体のような形に創価学会、公明党を変え、特に過激な宗教思想のようなものは、ほとんど前面に出さないようになった。
創価学会にはもともと日蓮正宗という上部団体が存在した。富士山周辺に根を張ってきた、日蓮系仏教のなかでもかなり特殊かつ過激な一派で、創価学会の目指していた政教一致的路線も、そもそもは日蓮正宗の教義からの影響である。だが、創価学会がその宗教性を希薄化させていった過程で、必然的に日蓮正宗は池田への不信感を強めていく。結果として両者は決裂し、1991年に日蓮正宗は創価学会を破門するに至る。とはいえ、すでに創価学会は日蓮正宗的な宗教精神というよりも、「偉大な池田大作先生」のカリスマ性によって率いられる集団と化していた。破門による弱体化などの影響はあまりなく、創価学会はますます、“池田教”的な色彩を強めながら進んでいくことになる。
そして、池田大作本人は、2010年以降、公の場にまったく姿を現さなくなった。もちろん、当時の池田は82歳であり、高齢からくる心身の不調の結果だったのだろう。その後、創価学会現会長の原田稔らは集団指導体制の構築に猛スピードで進んでいき、結局この池田という稀代のカリスマは以後十数年にわたり、世間一般はもとより、自らの弟子である創価学会員たちにさえ何の肉声も発しないまま、2023年11月の死を迎えた。
池田の晩年、創価学会は実質的にポスト池田体制の構築を完了させていたと言える。池田大作という人間が死去したことは、直接的に創価学会の組織に大きな影響はもたらさないと考えていい。実際に全国の創価学会員たちの動きを見ても、池田の死によって彼らが激しい動揺に襲われているような事実は確認できない。ゆえに「創価学会はすぐ崩壊する」といった、池田の死後に出てきた一部の意見も、基本的にはまともに受け取るようなものではない。
しかし、それは「今後とも創価学会は盤石であり、何の問題もなく、ますます伸びていく」ということを意味しない。そもそも池田が公の場から姿を消した2010年前後から、創価学会は明らかに組織的な退潮を迎えている。公明党の得票数がどんどん落ちていることはその象徴であり、また創価学会員全体が高齢化し、若い新規会員が非常に少なくなっているとの指摘も相次いでいる。創価学会とは結局、池田大作という巨大なカリスマによって率いられてきた団体である。池田を失った今、教団としての新たな中心軸をどこに求めればいいのか、組織としてはっきりした答えを出せているようには見えない。
また、日蓮正宗との決別以降、創価学会という宗教の教義的なバックボーンがどこにあるのかという問題は、あやふやなまま放置されているきらいがある。そうした点も“偉大な指導者”たる池田を欠いた状態で、再構築が可能なものなのか。
前述の通り、池田大作の死によって、すぐに創価学会という組織が破綻に追い込まれるような展開にはならない。しかし、池田の死が、もともと斜陽の傾向にあった創価学会という組織の課題、問題点を、より明確に照らし出しているとは感じられる。
創価学会とは日本最大の新宗教団体であり、池田大作という人物も、毀誉褒貶はありながらも、戦後日本の宗教史上において間違いなく特筆すべき、巨大な存在だった。その池田の死から見えてくるもの、そして学べるものとはいったい何なのか。本書は、そういう観点から分析した一冊である。
「はじめに」より
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