偽装殺人、他殺を装った自殺……。どんなに誤魔化そうとしても、もの言わぬ死体は、背後に潜む人間の憎しみや苦悩を雄弁に語りだす。
変死体を扱って約30年の元監察医・上野正彦氏が綴る大ベストセラー『死体は語る』(文春文庫)を一部抜粋して紹介する。(全2回の1回目/続きを読む)
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以前、吉田茂という宰相がいた。
高齢であったが、至極元気であった。対談で長寿の秘訣として、「食事などに留意されておられますか」との質問に、
「私は、人を食って生きているからね」
と笑わせていたのを覚えている。
フランス小噺風でユーモアに富み、人柄がにじみ出ていて面白い。
ところが同じ話でも、こちらは深刻である。アンデス山中に旅客機が墜落し、死者も出たが生存者も多かった。発見が遅れ救助されるまでにかなりの日数がかかり、食糧に窮した人々は、ついに死者の肉を食べ生命をつないだという体験リポートを読んだことがある。確か、食べずに死を選んだ人もあったと記憶している。生存者は、緊急避難(やむをえない行為)的要素があるので法律上問題にならなかった。
なぜ中年男性の死体が「化け物」だと思われたのか
私の事例は少し違っている。
廃品回収業の池さんは変わり者だった。気がむくとリヤカーをひいて仕事に出て行くが、あとはほとんど掘っ立て小屋のガラクタの中で焼酎をのみながら、数匹の猫を相手に暮らしていた。近所のおかみさんたちも心得たもので、残飯などを猫にやったりしていた。
あるとき、猫が一匹少ないので、
「どうしたの?」
と尋ねると、
「酒の肴がなかったので、焼いて食ってしまった」
と平気で答えたという気味の悪い話も伝わっている。
繁華街の裏手の空地の片隅に、六十を少し過ぎた池さんは、変わり者とか奇人といわれながらも、下町の人情に支えられてか、彼なりの人生を送っていた。
しかし、最近は仕事に出る日が少なくなっていた。ここ四~五日姿を見せないので、近所のおかみさんが心配して中の様子を見ようと、酒屋に相談した。そういえばここ数日、酒を買いに来ていない。それではと、酒屋の主人が戸のない出入口から中を覗き込んだ。
「ヒャー」
と大声をあげて戻ってきた。
「化け物が寝ている」
と言ったから大変である。
近所の人たちが集まってきて、おそるおそる中を覗き込み、騒ぎはさらに大きくなった。池さんは死んでいたのだ。
間もなくサイレンを鳴らしてパトカーがやってきた。警官が中に入り、現状を確認するとすぐに無線で連絡をとりはじめた。小屋の周囲には立ち入り禁止のロープが張りめぐらされ、本庁から捜査一課や鑑識の車が次々と集まってきた。
化け物は万年床から少しはみ出して、仰向けに倒れていた。口や鼻の周りには無数のウジ虫がうごめいているが、額から眉にかけてはわずかに池さんの面影を残している。右頬から右顎にかけては、白い下顎骨が露出し、顔貌は腐敗も加わって仁王様のような恐ろしさである。化け物が寝ているといったのも、無理からぬことである。
局部がえぐり取られたようになくなっていた
肌寒い季節であったから、汚れたジャケツを重ねて着ているが、下半身はなぜか裸である。股を少し広げ、陰部はほぼ逆三角形にえぐり取られたように、陰茎も陰のうも睾丸もなくなっている。
猟奇事件である。
昭和十一年、世間を騒がせた阿部定事件以来のことであろう。このときは、料亭の女中定が、自分の主人吉蔵を扼殺し、外陰部を切り取り、死体の左内股に、“さだきち二人ぎり”と血で書き、左腕には刃物で“さだ”と自分の名を刻んで逃げた。
二日後、定は逮捕されたが、その時、彼女は切り取った男根を大事に持っていたという。この事件は当時から、興味本位に猟奇的に扱われてきた。
しかし、医学的には二人はサディズムとマゾヒズムの関係にあったといわれている。異性を虐待し精神的・肉体的苦痛を与えることによって、性的快感を覚えるのがサディズムで、その逆がマゾヒズムである。
男にサディズムの傾向が強いと、女は少なからずマゾヒズムに傾くといわれる。元来、女性は受動的であるからマゾヒストが多い。しかし、吉蔵と定の関係は逆で、吉蔵が強いマゾヒスト、定はサディストであったという。
池さんの場合も、似たような背景が潜んでいるのであろうか。小屋の中は死体の腐敗臭が強烈で、まともに息もできない。ウジ虫の徘徊もあって、つばを吐き、ゲーゲーやっている刑事もいる。鑑識のカメラがフラッシュをたいたとき、小屋の隅にいた一匹の猫が驚いて逃げ出した。現場検証と並行して、私服刑事の聞き込みがすみやかに行われていた。
死体は語る
発売日:2003年03月20日
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