- 2024.10.07
- 読書オンライン
「丸太や角材でめちゃくちゃに強打され…」打撲傷の跡は40カ所超。1972年、当時20歳の学生は、なぜ同じ早稲田の学生らに虐殺されたのか?《映画化》
樋田 毅
『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』より #1
今から約半世紀前の1972年11月8日、一人の学生が早稲田大学文学部構内で、凄惨なリンチの末に殺された。被害者の名前を取って、のちに「川口大三郎君事件」と呼ばれるこの悲劇の内幕を詳述した傑作ルポ『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)が、このほど文庫化された。
著者は事件当時、同じ早稲田の学生として、政治セクトによる「理不尽な暴力」に直面し、のちにジャーナリストとして活躍した樋田毅氏だ。本作は2022年、第53回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、またこれを原案とした映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』が5月25日に公開される(ユーロスペースほか)。同書を抜粋した記事を再公開する。(全2回の1回目/後編を読む 初出:2021年11月5日)
◆◆◆
暴力を黙認していた文学部当局
キャンパス内で革マル派による暴力が頻発する状況に、文学部当局はどう対応していたのか。
一言でいえば、見て見ぬふりをしていた。これだけ暴力沙汰を起こしているにもかかわらず、文学部当局は革マル派の自治会を公認していたのだ。
当時、第一文学部と第二文学部は毎年1人1400円の自治会費(大学側は学会費と呼んでいた)を学生たちから授業料に上乗せして「代行徴収」し、革マル派の自治会に渡していた。
第一文学部の学生数は約4500人、第二文学部の学生数は約2000人だったので、計900万円余り。本部キャンパスにある商学部、社会科学部も同様の対応だった。
第一文学部の元教授は匿名を条件に、こう打ち明ける。
「当時は、文学部だけでなく、早稲田大学の本部、各学部の教授会が革マル派と比較的良好な関係にあった。他の政治セクトよりはマシという意味でだが、癒着状態にあったことは認めざるを得ない。だから、川口大三郎君の事件が起きて、我々は痛切に責任を感じた。革マル派の自治会の歴代委員長は、他のセクトの学生たちと比べると、約束したことは守った。田中敏夫君も、その前の委員長たちも、我々に対する時は言葉遣いも紳士的で、つまり、話が通じた。大学を管理する側にとって、好都合な面があった。しかし、事件後は、革マル派との癒着状態から脱することに奔走した。革マル派との縁を切ることは、文学部教授会の歴代執行部の共通した認識となった。民青の学生たちについても、共産党員の教授たちと通じている面があるため、別の意味で警戒の対象となっていた」
大学当局は、キャンパスの「暴力支配」を黙認することで、革マル派に学内の秩序を維持するための「番犬」の役割を期待していたのだろう。
「革マル派の本当の恐ろしさを見抜けなかった」
元教授は、こうも話した。
「革マル派が学内で台頭した当初、文学部の学生たちは間違いなく革マル派を支持していた。残念だが、それは事実だ。革マル派の本当の恐ろしさを、学生たちが見抜けなかったのだ。それは教授会も同じだった」
革マル派が早稲田大学で台頭し、第一文学部自治会の主導権を握ったのは1962年頃だったとされる。それ以前、つまり、「60年安保」で社会が大きく揺れた時代までは、第一文学部の学生自治会は、「構造改革派」と呼ばれたグループが多数派を占めていた。暴力革命による権力奪取ではなく、構造的な改良の積み重ねによる社会主義実現を目指すグループで、当初は日本共産党内の分派的な存在だった。全盛期には、第一文学部だけでなく、政経学部、教育学部の各学生自治会、早稲田祭実行委員会などでも主導権を握っていたが、60年安保闘争が敗北に終わった後の衰退期に、その空白を埋めるように革マル派が急速に勢力を伸ばしていった。
革マル派が正式に発足するのは、革命的共産主義者同盟が中核派と革マル派に分裂した63年2月とされている。早稲田では、分裂前の時点で、すでに革マル派グループが一文自治会などを握っていたことになる。
11月1日から6日まで開催された「早稲田祭」
新人戦(編集部注:筆者が参加していた体育会漕艇部の新人戦)が終わると、11月1日から6日まで、「早稲田祭」が本部キャンパスなどを会場にして催された。
サークルの展示や模擬店などが軒を連ね、有名人の講演会などの企画も多彩で、来場者は学外からも含めて6日間で十数万人にも及ぶ。私も入学したときから楽しみに待ちかねていて、埼玉・戸田の合宿所から連日のように通った。
会場ではキャンパスの各門にゲートが設けられ、入場券の役割を果たす早稲田祭の「公式パンフレット」を提示することになっていた。公式パンフレットは1冊200円(その後、400円に値上げ)で企業の広告なども多数掲載されていた。
それらの収入の多くは早稲田祭実行委員会の活動資金になるのだが、実はその早稲田祭実行委員会の執行部を革マル派が掌握していた。各ゲートでパンフレットをチェックしている者の多くは、「Z」印の革マル派のヘルメットをかぶった学生たちだったが、そんなことを気にする入場者はほとんどいなかった。
早稲田祭の2日後に起きた「川口大三郎君虐殺事件」
早稲田祭が終わった2日後、11月8日に川口大三郎君の虐殺事件が起きた。朝日新聞の11月9日付の夕刊は、事件の一報を以下の書き出しで報じていた。
「9日早朝、東京都文京区の東大病院アーケード下で若い男の死体がみつかった。本富士署で調べたところ、全身にリンチにあったらしい内出血の跡があり、早大第一文学部二年川口大三郎君(20)=下宿先、川崎市多摩区宿河原=とわかった。警視庁公安一課は、過激派のなかのトラブルから早大の教室でリンチにあって殺され、同病院に運ばれたとみて同署に殺人、死体遺棄の捜査本部を置いた。」
記事には、東大病院の遺体遺棄現場付近の写真とともに、「早大生 リンチで殺される」「革マル派が犯行発表『戦車反対集会でスパイ』」「教室で犯行 東大に遺棄」「早大教授ら 現場へ行ったが警察には届けず」などの見出しが付けられていた。事件が発覚した経緯や革マル派の対応などについては以下のように書かれていた。
教室に連れ込まれたので、文学部教授に連絡したが…
「同日午前7時20分ごろ牛込署に早大生から『友人の川口君がいなくなった。8日夜、早大構内でトラブルがあったようで、このトラブルに関係したらしい』と110番で連絡があった。同本部は川崎市に住む川口君の姉に死体の写真をみせたところ、『本人だと思う』といっており、同本部は川口君に間違いないとしている。(中略)同本部は友人の話などから犯行場所は早大構内とみている。川口君は8日昼ごろ、セーターにGパン姿で下宿先を出たままだった、という。」
「警察当局の調べによると川口君は8日午後2時ごろ、早大文学部前の校庭で学友3人と談笑していた。そのとき、革マル系らしい学生4、5人が近づき、川口君を近くの文学部127番教室に連れこんだ。川口君といっしょにいた学友が午後3時ごろ文学部教授に連絡し、127番教室に行ったところ、同教室入口で革マル系学生4、5人がピケ(ピケット=人間の盾=筆者)を張り、はいれなかったという。さらに午後5時、午後10時の2回にわたり、第一文学部教授らが同教室に近づいたが、ピケ隊の一人は『11時半ごろに車が来たらピケはやめる』といい、9日午前零時半ごろ、再度同教室に行ってみると学生らの姿は消えていた。
この間、大学側から警察への届け出はまったくなく、9日朝も警察が問合わせるまで大学側は連絡もしてこなかった。同教室内は机などが乱れて格闘したあとがあり、隣の128番教室ではタタミ2枚分ぐらいにわたりコンクリートの床を水で洗った形跡があった。」
丸太や角材でめちゃくちゃに強打
記事では、革マル派全学連の馬場素明委員長が同派による犯行を認め、同日午後零時半過ぎに開いた記者会見の内容も伝えていた。「8日夕、神奈川県相模原市の米軍戦車搬送に対し阻止行動を展開するため革マル派が早大構内で決起集会を開いたが、この中で川口君が“スパイ活動”をしているのを摘発した。自己批判を求めたところ、事実を認めたので、さらに追及しているうちにショック症状を起し死んだ」「スパイ活動を批判する中で発生した事件である」という革マル派の見解を伝えた後、「革マル派は川口君を中核派だとしているが、警視庁では確認していない。」と付記されていた。
翌日の朝日新聞の朝刊では、東大法医学教室による司法解剖の結果も報じられた。
「死因は、丸太や角材でめちゃくちゃに強打され、体全体が細胞破壊を起してショック死していることがわかった。死亡時間は8日夜9時から9日午前零時までの間とみられる。
体の打撲傷の跡は40カ所を超え、とくに背中と両腕は厚い皮下出血をしていた。外傷の一部は、先のとがったもので引っかかれた形跡もあり、両手首や腰、首にはヒモでしばったような跡もあった。」
さらに、その下には「中核派 川口君はシンパ “断固反撃”と発表」という小さな見出しで、中核派の政治局員が「川口君は、ときどき中核派の集会に参加していたシンパ的な学生で、活動家ではなかった」と発表したとあり、「事件の1週間ほど前のクラス討論で、川口君が、革マルの方針に批判的だったため、中核派の学生ときめつけられたのではないか」という推論をもとに、「中核派と間違えて殺した以上、断固反撃する」と語ったと書かれていた。
怒りと恐怖という二つの感情
私が事件を知ったのは、川口君の遺体発見が報じられた9日の夜だった。
ボート部の合宿所で新聞の記事を読み、思わず体が震えた。すぐ数人の級友たちに連絡を取り、情報を集めた。川口君が私たちと同じJ組の1年先輩だったことがわかり、さらにショックを受けた。
翌10日、私はとりあえず語学の授業に出た。革マル派は文学部のキャンパスでは集会やデモはしておらず、一見すると普段と変わらない光景だったが、キャンパスを行き交う学生たちに、革マル派への怒りと恐怖という二つの感情が広がっているのが明らかに感じられた。
1年J組の中国語の授業には、普段なら、前年に単位を落とした2年J組の先輩たち、つまり川口君の同級生も何人かは出席していた。しかし、この日、先輩たちの姿はなかった。クラスメートの突然の悲報に、授業どころではなかったのだろう。私たちのクラスは、2年J組とのつながりが深く、クラスコンパなどに飛び入り参加してくれる先輩たちも多かった。私自身は、川口君のことを直接知っていたわけではなかったが、テレビのニュースで流れた川口君の写真を見た級友たちが、「教室で見かけたことがある」と話していた。
絶対に革マル派は許せない。とにかく、何かしなければ。私も私の級友たちも、そんな思いを次第に募らせていった。
〈「文学部だから、こんなことが起こった」早稲田大学集団リンチで死亡した学生の通夜、大学総長が放った“無責任すぎる”言葉《映画化》〉へ続く
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