- 2024.10.07
- 読書オンライン
「文学部だから、こんなことが起こった」早稲田大学集団リンチで死亡した学生の通夜、大学総長が放った“無責任すぎる”言葉《映画化》
樋田 毅
『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』より #2
〈「丸太や角材でめちゃくちゃに強打され…」打撲傷の跡は40カ所超。1972年、当時20歳の学生は、なぜ同じ早稲田の学生らに虐殺されたのか?《映画化》〉から続く
学生運動に無関係だった“ノンポリ学生”にも衝撃を与えた、1972年の「川口大三郎君事件」。川口君は、同じ早稲田の学生たちから実に8時間にも及ぶ凄惨なリンチを受けた末に殺された。わずか20歳の若すぎる死だった。事件は、当時の学生たちの共通のトラウマとして記憶されている。
この悲劇の内幕を詳述した傑作ルポ、樋田毅氏著『彼は早稲田で死んだ 大学構内リンチ殺人事件の永遠』(文藝春秋)がこのほど文庫化された。本作は2022年、第53回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞、またこれを原案とした映画『ゲバルトの杜 彼は早稲田で死んだ』が5月25日に公開される(ユーロスペースほか)。同書を抜粋した記事を再公開する。(全2回の2回目/前編を読む 初出:2021年11月5日)
◆◆◆
川口君の遺体を確認した二葉さん
再び、二葉さんの「聞き書き」に戻る。
翌日(11月9日)の午前10時頃、下宿先に電話があった。「本富士警察署の者です」と名乗るので、戸惑った。後で聞くと、川口の遺体はこの日の早朝、東大病院の前で見つかっていたので、東大病院を管内に持つ本富士署から最初に電話があったのだ。本富士署の刑事は「二葉さんですね。ちょっと警察に来てもらわないといけないので、連絡を待ってください」と言った。その直後、牛込署からも電話がかかってきた。「すぐに牛込署へ来てくれるか」と言われた。僕は「川口のことですか?」と尋ねたけど、「来てくれたら、話す」と言うだけだった。僕は、胸が締め付けられるような思いで下宿を出て、電車とバスを乗り継いで牛込署へ向かった。
牛込署に着くと、取調室のような部屋に案内された。そこで、刑事に聞かれるまま、僕の前日の行動を話した。その後、刑事が「ちょっと、確認してほしい人がいる」と告げ、別室に連れて行かれた。
その部屋の片隅に、白っぽいシーツに覆われ、ベッドに寝かされている「人」がいた。遺体だと直感した。刑事が顔の部分のシーツの覆いを取り、「この人は、川口大三郎さんですか?」と尋ねた。
頬に赤紫になった傷があったけれど、その他の部分はきれいだった。僕は「間違いなく川口です」と答えた。朝、警察から電話があった時点で、川口は殺されたのだと思っていたので、川口の死に顔を見せられた時も、「自分は冷静だ」と、思い込もうとしていたはずだった。
お母さんお姉さんたちにひたすら頭を下げて
でも、そこから2時間ほど、僕の記憶は飛んでいる。たぶん、牛込署を出た後、茫然自失の状態で早稲田大学の方へ歩き、文学部の前を通って、さらに歩き続けていたのだと思う。高田馬場駅の近くを歩いていた時、我に返り、「川口のお姉さんに電話しなければ」と思い立った。川口はお姉さんと仲が良く、お姉さんの嫁ぎ先の川崎市の家に下宿し、彼女の夫が経営している建設業の会社でアルバイトもしていた。
公衆電話から電話すると、お姉さんがすぐに出て、「母もここへ来ています。母に代わります」と言った。すでに警察から連絡が入っていて、お母さんは伊東市の自宅から出てきていたのだと思った。僕はお母さんに「今からそちらへお伺いしてもいいですか?」と聞くと、お母さんは「ぜひ、来てください」と言ってくれた。僕は新宿から小田急線に乗り、登戸駅で降りて電話し、その案内に従って、初めてお姉さんの家を訪ねた。お姉さんのご主人もいた。
僕は、川口のお母さんやお姉さんたちにひたすら頭を下げた。前日の出来事を正直に話し、「川口と一緒にいながら、彼を救うことができませんでした。申し訳ありませんでした」と謝った。お母さんが「あなたがそんなことを思わなくてもいいのよ。やむを得なかったことなのよ」と慰めてくれたことを、今も覚えている。
リンチ殺人を他人事のように語った早大総長
翌10日に通夜があった。夜遅くになって、早稲田大学の村井資長総長と渡辺真一学生部長が来た。2Jのクラス担任の長谷川良一先生も同行していた。村井総長は、ありきたりなお悔やみの言葉を述べた後、「文学部だから、こんなことが起こった。文学部はひどい状態だった」と話し始めた。これを聞いて、僕は頭に血が上った。まるで評論家のような、他人事の口ぶりに対して。
「そんなこと、言っちゃいけないでしょ。あなた、大学の責任者だろ。大学の責任者として、学生の命を守れなかったんだ。無責任なことを言っちゃいけない」
僕は強い口調で言った。
村井総長は黙ったままだった。彼らが足早に引き揚げた後、川口のお姉さんのご主人から「二葉君、仮にも大学の先生に向かって、あんなひどい言い方をしてはいけない」とお叱りの言葉を受けた。けれども、僕にしてみれば、村井総長の言葉は絶対に許せなかった。周りに人がいなかったら、ひっぱたいていたかもしれない。
「川口を死なせてしまった」という気持ちに苛まれ続けて
11月11日、お姉さんの家で川口の葬儀があった。僕のクラスからも10人近くが出席した。葬儀が終わると、お母さんが挨拶をされた。涙ぐみながら、感極まったように「大三郎の周りにいた人に、なんとか息子を救出してもらえなかったのか、悔やまれます」とおっしゃった。胸の奥に溜まっていた思いを述べられたのだ。その言葉を聞き、僕は号泣した。葬儀が終わった後も、僕は泣き続けた。級友たちが「お前のせいじゃない」と言葉をかけてくれる度に、またしゃくり上げて泣いた。川口と、ご家族に申し訳ない、僕が川口を死なせてしまったという気持ちに苛まれ続けた。
11月17日には川口の学生葬が大学の本部キャンパスの前の大隈講堂であったけれど、僕は出席せず、広島の実家に帰った。その直前にクラスの討論の場に一度だけ顔を出し、「田舎へ帰る」とみんなに告げた。それから2週間ほど、東京には戻らなかった。川口が殺されるんだったら、僕だって殺されてもおかしくない。僕も、中核派の人間を知っていたし、会ってもいた。クラスには、川口と僕を中核派の集会に誘った別の級友もいる。この級友は、僕や川口よりも、はるかに中核派に近い。彼が襲われる可能性だってある。もう東京の下宿にはいられない。そんな気持ちになっていた。
以上が、二葉さんが語った川口君の拉致から葬儀に至るまでの記憶である。
川口君を救出しなかった大学当局の責任は免れない
大学構内の教室の中で起きた事件なのに、大学当局は、必要な措置をとらなかった。革マル派は普段から、反対派の学生や教授らへの暴力事件を頻繁に起こしていたのに、教室へ連れ込まれたまま戻らない学生を救出できなかった。
言うまでもなく教室の施設管理権は、大学当局にある。様子を見に行った2人の教員は川口君の身の危険を十分に察知できたはずであり、施設管理権を行使し、警察に出動要請をしていれば、川口君の命を救うことはできたのだ。半世紀前の出来事であることは承知の上で、大学当局の責任は免れないと思う。
その後、川口君がリンチを受け、絶命したのは、最初に連れ込まれた127番教室ではなく、隣の128番教室だったことが警察の実況見分でわかった。128番教室は革マル派が普段から自治会室として使用しており、そこから大量の血痕などが検出されたのだ。
革マル派の声明文
事件直後、革マル派全学連は、馬場素明委員長の記者会見と前後して、中央執行委員会の名でも緊急声明を出していた。その声明はすぐにチラシとして活字印刷され、学内で大量に撒かれた。
声明文の冒頭は以下のようなものだった。
「11月8日、中核派学生・川口大三郎君の死去という事態が発生した。この事態は、彼のスパイ活動にたいするわれわれの自己批判要求の過程で生じたものであった。それゆえわが全学連は、この不幸かつ遺憾な事態にたいし、全労働者階級人民の前にわれわれの責任ある態度を明らかにすることが階級的義務であると考える。
11月8日、全学連は、政府支配階級が強行した相模補給廠(神奈川県相模原市にある在日アメリカ陸軍の補給施設=筆者)からの戦車搬出にたいして断固たる緊急阻止行動を展開するために、早稲田大学に結集し総決起集会を実現した。ところがこの過程で、われわれは、早大構内における中核派学生・川口大三郎君のスパイ活動を摘発した。『革マル殲滅』を呼号しつつ姑息な敵対をつづけてきた中核派の一員としてスパイ活動を担った彼川口君にたいし、われわれは、当然にも原則的な自己批判を求めた。そして彼はスパイ活動の事実を認めた。それゆえわれわれは、さらに、彼のスパイ行為そのものへの誠実な自己反省を追及した。
ところがこの過程でわれわれの意図せざる事態が生じた。彼は、われわれの追及の過程で突然ショック的状況を起し死に至ったのである。」
革マル派全学連の、馬場委員長の辞任発表
その2日後の11月11日、革マル派全学連は馬場委員長の辞任を発表し、特別声明を出した。難解な運動用語を多用した声明の一部を抜粋する。
「左翼戦線内部での党派的闘いにおいても―まさに中核派の同志海老原・水山虐殺にたいしてわが全学連が断固たる反撃行動をくりひろげたことに示されるように―ある特殊な政治力学関係のもとでは、他党派の組織を革命的に解体していくために、イデオロギー的・組織的闘いを基軸としつつも、時に暴力的形態をも伴うかたちで党派闘争を推進する場合があることを、単純に否定することはできない。」
「こうした特殊な暴力をあえて行使しなければならない場合には、対国家権力との緊張関係のもとに、かつ〈何のために・いかなる条件の下で・どのように〉という明確な理論的基礎づけのもとに、まさに組織の責任の下に組織的に遂行されねばならない。そしてその際にも、マルクス主義の原則=プロレタリアート自己解放の理念から逸脱するような行為は決してとりえないのである。」
「このような確認にもかかわらず、川口君の死はひき起された。この具体的な結果からするならば、これに携わった全学連の一部の仲間たちは、このような原則にのっとっているという固い確信にたちながらもその思想性・組織性の未熟さのゆえに、事実上、原則からはみ出すような行為をおかしたものといわざるをえない。たとえそれがわれわれ自身が全く予期しなかった突発的なショック的状況のなかでの死であったとしても、この死がわれわれによる自己批判要求の過程で起きたものである以上、その責任を回避することはできないのである。」
自分たちに都合のいい理屈の「自己批判」
馬場委員長の辞任を「自己反省の一端」であるとし、組織として一応は「自己批判」しているようにも取れる内容ではあった。だが、ここでの「自己批判」は、あまりにも自分たちに都合のいい理屈であり、到底、納得のできるものではなかった。
革マル派は声明で、川口君は中核派活動家で、スパイ行為をしていたので追及した。その過程は正しかったが、死という事態を招いた。つまり、彼が死んでしまったので、その結果についてのみ、反省すると一貫して主張しているのだ。
革マル派は、自分たちが行使する「革命的暴力」は、組織的にコントロールできる、と考えていた。だから、川口君の「予期せぬ死」については自己批判するというのだ。その上で、自分たちの暴力は革命理論によって管理された暴力なので正しいが、他セクトの暴力はそうではないので間違っているとまで言い切っていた。
この声明を聞いて、それまで革マル派による学内での暴力行為について見て見ぬふりをしていた一般の学生も、さすがにもう黙ってはいなかった。そもそも、川口君がスパイであったと断定する言い分に疑惑の目が向けられていた。
立証されないスパイ行為
第一文学部自治会の田中委員長は、事件の2日後から連日続いた一般の学生たちの抗議集会に出席して、「川口君のスパイ行為の事実を完全に立証し、裏付ける川口君の書いたメモを証拠物件として把握しているが、権力との緊張関係と高度の政治力学における特殊な問題なので、公開できない」と説明していた。それに対して、学生たちは「証拠があるなら、それを見せろ!」と追及していた。
田中委員長は毎日新聞の取材にも応じ、こう語っている。
「――川口君は君らに自己批判を要求されるようなことを本当にやっていたのか。
田中 われわれの調査で彼が新宿区のアジトに出入りし、一定の人とも接触していたことがはっきりしている。(中略)しかし母親の心情を考え、また“左翼仁義”からも、これ以上明らかにするのは控えたい。」
「――川口君のお母さんにあやまったといったが、その具体的な誠意として殺害犯人を自首させるつもりはないか。
田中 考えていない。自首は権力との闘いに敗れたことになり、自己批判をした意味がなくなる。」(11月22日付 朝刊)
私は、この記事の中の「母親の心情」「左翼仁義」という言葉に強い違和感を持った。
「真実を話せば、母親の気持ちを傷つける。左翼の世界の仁義にも反する」という意味合いでの言葉であろうが、それ以前に田中委員長は、川口君がスパイであったという証拠を開示すべきであり、それができないのなら、スパイ行為はなかったと認めるべきなのだ。
田中委員長はこのインタビューで、川口君が中核派のアジトに出入りしていたとは述べたが、スパイ行為については一言も触れていなかった。
そして、田中委員長が表明したように、事件の実行犯が自首することはなかった。
逮捕されるも完全黙秘
警視庁の捜査は難航したが、二葉幸三さんら目撃者の証言に基づき、犯行時間帯に127番教室や128、129番教室に出入りしていた革マル派の活動家を特定し、事件から約1か月後の12月11日に、漸く一文と二文の自治会関係者が相次いで逮捕された。
しかし、彼らは取り調べに対して、「完全黙秘」を貫いたため、二葉さんらへの暴力行為についてのみ起訴され、肝心の川口君が殺された事件については立件されないまま釈放されることになった。
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