この本の単行本が刊行された3年前からごく最近まで、取材を受けるたびに同じ質問を繰り返されてきた。
「つまり、エンパシーというのは、何なのでしょう」
いや、それについて丸々一冊書いたつもりなのですが……。そう答えたくなったが、後に続く質問を聞くと、先方がそう尋ねる意図がわかった。
「共感、というのとは違うのですよね? 日本語で何と訳せばいいのでしょうか」
「他者の靴を履くこと」。それはこの本の題名でもある。もちろん、取材してくださる方々もそれは読んでいるだろう。だが、日本社会に氾濫する「共感」という言葉と、バシッと対比させられるキャッチーな言葉が欲しいということなのだ。「エンパシー」と「シンパシー」は美しく対比できるのに、シンパシーを意味する「共感」と並べられるエンパシーの訳語をあなたはまだ考案できていない。そういうご批判の声だとわたしは理解した。
とはいえ、何でもかんでも英語の言葉や概念が、完璧に日本語に置き換えられるという考えは甘いというか、歴史も文化も違うところで培われてきた言語に、そうぴったりと符合する言葉が存在するわけはないではないか。
などと心中で毒づきながら、「共感」の横にきれいに収まる言葉なら、「他感」か?
と思った。ほぼヤケクソである。
しかし、ネットで調べてみると、「他感」という言葉はすでに存在している。正確には「他感作用」で「アレロパシー」という言葉の日本語訳であるらしい。
これはまずい。エンパシーの訳を考案しているのに、別の英単語の訳語をあてるわけにはいかない。ちなみに「他感作用」が何のことかというと、「ある植物の出す物質が、他の植物や微生物などの生育を促進または阻害すること。セイタカアワダチソウが根から化学物質を分泌し、他の植物を排除するなどの例がある。遠隔作用。アレロパシー」とデジタル大辞泉に書かれていた。
エンパシーの意味とは違う。が、これはこれで面白い言葉だなと思っていると、Googleさんが変なことを聞いてきた。「他感する」で検索してみると、こうお尋ねになるのである。
Did you mean:我慢する
「タカンスル」と「ガマンスル」。韻を踏んでいるので、Googleさんは入力エラーかと思ったのだろう。しかし、この問いは妙に引っかかる。他者の立場を慮ることと、自分が我慢することは繋がるからである。例えば、エンパシーが水平ではなくて垂直な方向(下ではなくて上)にばかり向かうと、為政者がどのような悪政を行っても「お上にも事情があるのだから」と我慢する人が増える。これは本書にも書いたエンパシーの弊害の一つだ。
アレロパシーという植物界における現象も人間界にスライドできる。ある人間や社会が発する何かが、別の人間や社会に影響をおよぼすことはあるからだ。その「何か」を例えば「情報」と定義すれば、植物における土壌にあたるものは媒体(インターネットなど)だ。戦争や災害の情報が世界に拡散されると、遠隔地の人々にも影響を与える。紛争地の人々にエンパシーを働かせ、どちらかの陣営に感情移入し過ぎるあまりに自らテロリストになる人々が出てくるという説は本書でも書いたし、イスラエルとハマスの武力衝突が始まったときに、中東から遠く離れた英国でユダヤ系、ムスリム系の人々へのレイシズムが高まったのも同様の現象だろう。
ならば、アレロパシーはエンパシーの一現象と言うこともできないだろうか。などと、いつまでも考察していると、「じゃあ、エンパシーの日本語訳は『他感』でいいんですか?」としびれを切らすインタビュアーの声が聞こえてきそうだが、この本は初めから、そういうわかりやすくて簡潔な答えを出すものではなかった。
そもそも、この両義性を持つ人間の能力について考える旅が、たかが数年で終わるわけがないからだ。そういう意味でこの本は未完である。続きを書いていくのはわたしかもしれないし、この本を読んでいるあなたかもしれない。
2024年2月23日
「文庫版あとがき」より
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『赤毛のアン論』松本侑子・著
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