〈「竹やりでは間に合わぬ」太平洋戦争時の“勇気ある”東條英機批判は評価すべきなのか?《激怒の真相》〉から続く
敗戦後、自決すべきか、それとも連合軍の求めに応じて出頭すべきか……。『東條英機「独裁者」を演じた男』(文春新書)より一部抜粋し、関係者の証言と共に苦悩に満ちた東條の足跡を辿る。(全2回の後編/最初から読む)
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自決の決意を語った東条英機
降伏、武装解除止むなしとなった以上、東條は身の処し方を考えねばならない。次の元秘書官・赤松貞雄大佐に宛てた8月14日午前10時のメモには、事ここに至った道徳上の責任は死をもってお詫び申し上げる、この一点だけが今日余に残っている、そしてその機は今の瞬間においてもその必要を見るやもしれず、決して不覚の動作はしない決心である、犯罪責任者として政府がいずれ捕えに来るだろう、その際は日本的な方法によって応じるだろう、陛下が重臣を敵側に売ったとのそしりを受けないよう、また敵の法廷に立つようなことは日本人として採らないところである、その主旨で行動する、などとあった。
東條は、自分がポツダム宣言の条文通り戦犯として逮捕され、裁判にかけられることを予見し、その際は「日本的な方法」、すなわち自決で応じるとの決意を示していた。なぜ自決が降伏と同時でないのかはわかりづらいが、東條としては逮捕と同時に自決することで、自分が天皇の身代わりであると連合国側により強く印象づけたいと考えたのかもしれない。
その8月14日深夜から15日にかけて、陸軍省と近衛第1師団の将校らが降伏に反対してクーデターを起こした。その中に東條の次女・満喜枝の夫である古賀秀正少佐がいた。古賀は15日、決起の失敗とともに拳銃で自殺する。阿南惟幾陸相も正午の玉音放送を待つことなく割腹自殺を遂げた。
東條は8月22日、自宅で片倉衷少将に「俺は裁判にでも何でも行って堂々と所信を述べるつもりである。天皇陛下には絶対御迷惑をかけたくない。戦争に対する全責任は自分が執とるためにも敢えてこの道を選んだ。しかし、連合軍がなすべき道を履まず、不当な処置(例えば捕虜の取扱いをするが如き)をとる時は俺は自ら処するの覚悟がある」と語ったという(東條英機刊行会ほか編『東條英機』)。
この回想に従えば、天皇の身代わりとして日本の立場を連合国に堂々と主張するつもりはあるが、犯罪者として逮捕される=捕虜となるなら戦陣訓にしたがって自決する、と考えていたかもしれない。
自決を選ぶべきか、法廷闘争に臨むべきか……
しかし東條が、8月27日に用賀の私邸を訪れた陸軍省高級副官・美山要蔵に自決の覚悟を語り、「戦犯の発表があったら、すぐ知らせてくれ」と頼んだという話もある。これを聞いた最後の陸相・下村定が東條を招いて皇統護持と日本の名誉のために戦争裁判に臨んでほしいと説得したが、その決意は固かったという(伊藤智永『奇をてらわず』)。東條には一貫した方針はなく、自決するか法廷闘争に臨むかをめぐって懊悩していたのではないか。
マッカーサーは、進駐当日の1945(昭和20)年8月30日の晩、東條の逮捕とA級戦犯容疑者リストの作成を命じた。その後ワシントンが日本側の捕虜虐待の事実を公表したため、米国の世論が沸騰した。それを受けて米国統合参謀本部は対日戦犯裁判の早期開始を命じた。かくして9月11日、日本政府への連絡なしに東條の逮捕が行われ、他の戦犯の第1次逮捕令が発せられた(日暮吉延『東京裁判の国際関係』)。
もっともマッカーサー連合国軍最高司令官は、時間のかかる国際裁判に批判的だった。米国単独で「東條を殺人罪(一般の)として取扱」い、迅速に裁くよう本国に要請したが、認められなかった(同)。
東久邇宮内閣の外相となった吉田茂は戦時中、近衛上奏文の作成に関与した廉で憲兵隊に逮捕されるという経験をしていた。吉田は敗戦直後の手紙で「この敗戦必らずしも悪からず」、「これより日米善解に努力するが吾等の御奉公」と述べ、「嘗て小生共を苦しめたるケンペイ君、ポツダム宣言に所謂戦争責任の糾弾に恐れをなし、米俘虐待の脛疵連、昨今脱営逃避の陋態、その頭目東条は青梅の古寺に潜伏中のよし、釈放せられし当時、実は今に見ろと小生も内々含むところなきに非りしも、今はザマを見ろと些か溜飲を下げおり候」と東條への憎しみを露わにしていた(もっとも吉田の逮捕は東條退陣後の45年4月)。青梅への潜伏云々は当時そのような噂が流れたようだ。日暮吉延は吉田をはじめとする「戦後日本外交の担い手たちは、東京裁判をいわば禊の道具とすることで日米英関係の緊密化が可能だと考えた」と指摘する(同)。
拳銃で胸を撃ち自殺を図ったのだが……
9月11日、米軍のMP(憲兵)が東條逮捕のため用賀の家を訪れた。東條は敗戦時のクーデターに参加、失敗して自決した女婿・古賀秀正少佐の遺品の拳銃で胸を撃ち自殺を図ったが、弾丸がわずかに心臓をそれて失敗した。東條内閣の閣僚からは、小泉親彦元厚生大臣、橋田邦彦元文部大臣の2人が逮捕を拒否して自殺している。
自殺に失敗した東條に国民からの批判が集中した。真崎甚三郎は翌12日、「東條の自殺狂言」について「悪党も今わ〔際〕の際に覚るらん 早く唱えよ南無阿弥陀仏」との和歌を日記に記した(『真崎甚三郎日記 昭和18年5月~昭和20年12月』)。もっとも真崎自身も11月にA級戦犯容疑者として逮捕される(のち不起訴)。
愛知県に疎開していた文学者の杉浦明平は9月11日の日記に次のように書いた。長文だが、当時の国民の東條観を考えるうえで興味深いので引用する。
東條英機が逮捕に先立って自決した、とラジオは伝えている、寺内も重態という。戦争犯罪人数千名の名簿がすでに作成されているそうだ。東條などはいかにしても逃れられぬところだ、総辞職のときか、終戦詔勅発布の日にでも自決すれば死花を咲かせたといえただろう。最後の重臣会議においてさえ、俺にやらしておけばこんなことにはならなかったろう、とうそぶいていたという噂であり、まだ一旗挙げるつもりだったらしいから、往生際の悪いこと。よし連合国が見逃したとしても日本国民が承知しないであろう。軍部の傀儡にすぎず、演じそこないの日本的名君であった。ドンキホーテであった。首相となって以来、漬物屋をのぞいたり、ごみ箱の蓋を開いて見てまだ菜っぱのくずが残っていると訓戒して見たり、芝居が好きであって、いつか自己をヒットラー、ムッソリーニと並べてしまったようだ。尤も清掃桶だけは臭いから東京市長にゆずって自分でのぞくのをやめた。(若杉美智子ほか編『杉浦明平暗夜日記』)
次々と上がった東条英機への批判
「演じそこないの日本的名君」という東條評は、自決失敗の揶揄であるとともに、その「総力戦」指導者としての特徴をよくつかんでいる。
東條への批判は激しかった。志賀直哉は1945(昭和20)年11月27日のエッセイ「銅像」で、戦前の我々は豊臣秀吉の朝鮮出兵を漫然と「壮図と」と考えたのだから、百年、二百年と経てば今度の戦争を、その結果を忘れ自慢の種にする時が来るかもしれない、第二の東條英機が出るようなことは絶対に防がねばならない、と述べた(志賀『翌年』所収)。
志賀はその予防策として「東條英機の大きな銅像、それも英雄東條英機ではなく、今、吾々が彼に感じている卑小なる東條英機を如実に表現した銅像」を建てようと提案した。銅像の「台座の浮彫には空襲、焼跡、餓死者、追剝、強盗、それに進駐軍、その他いろいろ現わすべきものがあろう。そして柵には竹槍。かくして日本国民は永久に東條英機の真実の姿を記憶すべきである」。敗戦後の生活苦を通じて、東條は国民に無謀な竹槍の戦を強いた愚かな指導者として“記憶”されていった。
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