- 2024.09.05
- 読書オンライン
死を覚悟した女が、どんなふうに人を愛し、生きたのか。
宇垣 美里
桜木紫乃『ブルースRed』『ブルース』を読む
出典 : #文春オンライン
ジャンル :
#小説
,#エンタメ・ミステリ
その人の愛しかたにこそ、生き様が現れる
その人の愛しかたにこそ、生き様が現れるように思う。守ると決めた人に全てを賭して包み込むように愛する人もいれば、愛しているからこそ、獅子のようにわが子を谷底へと落とす者もいる。人を愛する覚悟を持たぬまま、ずるずると流されていく人もいよう。影山莉菜のそれは、熾のようにいつまでもいつまでも、燃え続けるものだった。
自分の恋の不始末で義父の博人を喪った影山莉菜は、亡父の跡を継いで釧路の街を裏から牛耳る黒幕となった。たったひとり博人の血を引く武博を後継者として育て上げ、いつか代議士として国の赤絨毯の道を歩ませるため、彼女は裏切り裏切られる修羅の道を行く。
物語の冒頭から老いた代議士を接待する倒錯的で艶麗な描写で始まり、使えるものなら何でも使う莉菜の冷酷さと隠しようもない美しさ、それでいて決して一線を越えさせはしない強かさが強烈な印象を残す。
作者は「守りたいものがあれば いくらでもワルになれる そんな女を書きました」という。目的のためなら何だってやると腹を決めた女ってやつは、どうしてこんなにも魅力的なのだろう。臓物のひとつやふたつくれてやる、そんな風に啖呵を切るがごとくに生きる女の鮮やかさったらなくて、その手負いの熊のような気迫に、妖しく光る眼差しに、どうしたって憧れて仕方がない。ああ、姉御って呼んでまとわりつきたい……。疎まれ邪見にされると分かっていても、呆れ笑いでもいいから見てみたくって、その凍てた眼に自分を映してみたくて、生きることを諦めているようなその人をできるならこの世に引き留めたくて、バカみたいにふざけて子犬のようにじゃれついてしまう癖が私にはある。悪意や欲望に敏感な彼女たちは、同じくらい混じりけのない心もくみ取ってくれるものだから、多分可愛がってくれるはず。ばかだなあって言って頭を撫でて欲しい。よくやったって褒めて欲しい。莉菜に出会ってしまったら、きっと私は喜んでその手駒となり道を踏み外すことだろう。どんなに愛したとしても、男のために命は張れない。むしろ嬉々として私の盾になるような男が私の好み。けれど慕った女のためならば、性欲でも情欲でもなく敬愛のためならば、私はためらいもなくこの手を汚す。だから本当は、あんまり莉菜に会いたくない。
『ブルース』と『ブルースRed』を往復することで、いろんなことが楽しめる二作品
莉菜をはじめとした登場人物の魅力を引き立てるのがハードボイルドな文体だ。桜木紫乃の作品に通底する陰影の中にある人の本質をえぐり取るような筆致と乾いたリズム、研ぎ澄まされたセリフに漂う切実な情緒と昏い雰囲気は、まるで釧路の霧の中。ありありと情景が浮かぶ圧倒的な筆力とその哀愁溢れる世界観に惹かれ溺れるうちに、心はまだ行ったことのない道東へと誘われた。
想像の中の道東は、いつも鈍色の空が広がっている。桜木作品の中のその土地は骨に染みるような厳しい寒さによって生み出されたのであろう閉塞感にどっぷりと支配されていて、この最果ての地だからこそ、莉菜は、博人は、生まれたのかもしれないなあと感じた。
そう、莉菜を中心にちりばめられた短編連作の中、その物語のもうひとりの主人公は、死して尚、女たちの心に色濃く影を落とし続ける影山博人その人だ。読めば読むほど死者である彼の存在感が浮き彫りになっていく。実の息子である武博の中にも彼の姿がちらついて、この世から旅立っても、その存在が生きているものを狂わせる男の凄みに鳥肌が立った。
彼と彼を取り巻く女たちの話は、前作にあたる「ブルース」を読めば、より深く味わうことができる。読む順番は問わない。時系列順に「ブルース」から先に読むもよし、本作で莉菜という女の一生を味わった後に、振り返るようにその父の話に触れるもよし。二作品を往復することで、男と女のワルの違いや寂れゆく釧路の街の変化、ハードボイルドの味わいも増すから何通りにも楽しめる。もちろん、この一冊でも十分強く美しく一途な女の業にまみれた半生を堪能することができる。
死に場所を求め、気高く意思を持って流転する女の美しさ。
女たちを魅了し、狂わせ、時に闇へと沈めながら、その実博人は女たちに利用されていたようにすら感じたのは少々意地悪な読み方だろうか。前作に引き続き登場する女たちは皆壮絶な人生を歩んでいながら欲望にギラギラと目を光らせていて、むしろその時ぽっかりと空いていた穴を埋めるのに、彼は都合がよかったのではないかな、なんて。そう思うと、男とは難儀な生き物だ。女を欲望の器に変えながらも、死んでも奪い合われる姿にはその情念に喰われてしまったかのような空虚さがある。そうしてしまうのも女の強さ、なんだろうか。
博人に翻弄される女たちの中、恋心を抱きながらも成就することはなく、それでいて血の繋がらない娘として彼から多くを教わった莉菜は、結ばれなかったからこそ、誰よりも強く彼の影をその身に宿す。出発に死があるから今更潰えるものなどなく、莉菜はずっと彼の幻影に導かれるように生き、不在を見つめながらただ一人を想い続ける。そう、まるで炎がなくともいつまでも真っ赤にその身を燃やし続ける熾火のように。
物語の中盤、彼女は密かに抱えていた念願を叶えるけれど、それすらきっと代用で。つくづく男とは難儀なものだ。そして、その思い出を胸に人生と折り合いをつけ、自らの手で人生の後始末に取り掛かる彼女の生き方もまた不器用で、切ない。人間とはどこまでも愚かで寂しくて、だから愛おしいのだと、物語は訴える。
博人とは違い、作品の中で莉菜は次第に年を取り、力を失っていく。老いを晒し、死に場所を求め、それでもずっと彼女がかっこいいのは、己の足で乾いた大地をしかと踏みしめ、その孤独を見据えて生きているから。気高く意思を持って流転しつづける女の生き様のなんと哀しく潔く美しいことか。
影山莉菜は幸せ、だったのだろうか。
彼女は幸せ、だったのだろうか。幸せをどのように定義するかは人によるとは思うけれど、ただ一人を胸に、道なき道を進み続ける姿をどこか羨ましく感じた。その瞬間を抱きしめて生きていける、そんな人生の一幕は万人に用意されたものではない。愛に生き様が現れるのだとしたら、生き様によって愛を定義できるのだとしたら、私はどんなふうに愛し、生きていこうか。若い頃は衝動のままに突っ走ることもできた。今は、どうだろう。ああ、三十を越えてまだまだ分からないことだらけだ。それでも莉菜を見ていると、分からないなりに、どこに行きつこうと背筋を伸ばし、自分の人生の落とし前は自分の力でつけてみせる、と思えた。
莉菜を突き動かすのは義父の「男と違って女のワルには、できないことがないからな」という言葉だ。腹をくくった女にできないことなど、怖いものなど何もない。それはきっと生まれついてのワルというよりワルになることを選んだ者が持つ、底なしの執念によるものだ。そうと決めたら私たちは、何にだってなれるし、何だってできる。転がるように生きて生きて、川底にさらされ傷つききった先にこそ見える景色もあろう。それは呪いだろうか? いいや、きっと祝福。
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