今から六十年ほど前、ある人気女性作家が「美智子さま」という題の小説を月刊誌に連載していた。読者には好評だったようだが、宮内庁から月刊誌の発行元の出版社に、連載をやめてくれ、との申し入れがあった。「この小説は、興味本位で世間に誤った印象を与える」とのクレームである。
出版社側は、宮内庁との話し合いの末、申し入れを容れた。連載は中止されたのだが、たまたまそのころ、小説の主人公だった美智子さま(美智子皇太子妃。いまの上皇后)は、第一皇子徳仁親王(今上天皇)に次ぐ二人目の子を懐妊していた。ところが、流産してしまうのだ。
宮内庁は「美智子さま」が流産の原因だったとは言わなかったが、世間では、妃がこの小説のせいで不幸な目にあったのだと騒ぐ向きも多かった。
そうなると、面倒をおそれてだろうか、皇太子妃だけでなく、ほかの皇族、あるいは戦後、皇室をはなれた元皇族のことをとりあげる小説やルポルタージュの類も、影をひそめるようになる。
左翼学者の、天皇制批判を目的にした研究書などは、書店の棚にぽつりぽつりと並ぶが、読者はすくない。
ただ、そのような小説などがあらわれなくなったのは、ほかにも理由がある。それは、戦後、皇族たちについての信用できる史料が、ほとんど世間に出てこなかったということである。
ここで「皇族たち」というのは、昭和二十二(一九四七)年十月十四日に、いわゆる「臣籍降下」をし、皇族の身分を失い、普通の日本国民とされた五十一名の人々である。敗戦後すぐに総理大臣となった東久邇宮稔彦王などだが、彼らについての信頼できる内容の史料は、実にすくない。
東久邇など何人かの元皇族は、臣籍降下後に、回想録風の書物や、「日記」と称するものを出版している。しかし、それらの多くは、自分に都合のいい事実だけをならべたり、ひどい場合は事実を曲げたりしている。そんなものを信用して、小説などを書くわけにはいかないのだ。
ところが、きわめてありがたいことに、ここに貴重な史料がある。林真理子さんが着目した梨本宮伊都子妃の明治、大正、昭和三代にわたる日記である。
伊都子は明治十五(一八八二)年に生まれ、昭和五十一年に死去するが、長い人生のうちの八十年近くの間、日記を記し続けた。本人にはそれを公開するつもりはなかったようだが、死後、遺族の同意のもと、歴史研究者の小田部雄次氏によって活字化され、主要な部分が、『梨本宮伊都子妃の日記 皇族妃の見た明治・大正・昭和』と題して出版された。
林真理子『李王家の縁談』は、これを大いに参考にしている。しかし、日記の記述をそのまま引用しても、小説、文学作品にはならない。その裏側をどのように読みこんでいくか。それが面白い小説を生み出す必須の条件である。
ひとつ例をあげよう。
伊都子は明治三十三年、十九歳で皇族の梨本宮守正王と結婚する。江戸時代末まで、皇族の社会的地位は、近衛、九条家などの名門公家や大大名より低かったが、王政復古後は、天皇に次ぐ存在となる。
伊都子の実家鍋島家は、肥前佐賀の石高三十五万石の大大名だったが、その娘が皇族と結婚することの意味も、すっかり変わったのだ。
現に伊都子は日記に、自分の結婚について、「実に名誉此上なし」と記している。これだけ読めば、伊都子も守正王に嫁ぐことを喜んでいるとしか思えない。
が、『李王家の縁談』には、次のような鋭い一節がある。
大きな声では言えないが、これが人が言うほどの「玉の輿」だったかというと、微妙なところであったと伊都子は思う。
要するに、日記の記述とは違って、伊都子は皇族と結婚することが「名誉此の上ないこと」などとは考えていなかったと、『李王家の縁談』では述べられているのだ。
そして、このような伊都子の内心への鋭い目が、彼女の娘である方子女王の結婚についての、実に興味深い見方につながってくる。
方子は明治三十四年に生まれた。二人姉妹の長女である。江戸時代には女性が宮家の当主となることもまれにあり、たとえば桂宮家は、仁孝天皇の皇女である淑子内親王が継いでいた。しかし、明治になってからは、女性が宮家を継ぐことは認められなくなった。
したがって、長女であっても、方子は配偶者を見つけ、宮家を出ていかねばならない。この方子の夫となったのが、韓国李王家の皇太子だった垠だった。
垠はまだ韓国が日本に併合される前、明治四十年、十歳のときに来日する。明治天皇はこの少年を可愛がり、陸軍の幼年学校、士官学校、陸軍大学校で学ばせた。そして垠は、大正五(一九一六)年、方子と婚約し、九年四月に結婚する。
『李王家の縁談』には、この間の経緯が実に細かく、的確に描かれている。伊都子の心境、行動、方子の逡巡などについても、すべてを記した史料があるわけではないが、『李王家の縁談』の記述の説得力は、読者をうなずかせるに十分であろう。
伊都子には『三代の天皇と私』という回顧録がある。誰かが伊都子の話を聞いてまとめた、いわゆる「聞き書き」風の書物だが、ここには方子と垠の結婚は、宮内省の幹部らがお膳立てをし、伊都子に押し付けた旨の記述がある。
しかし、『李王家の縁談』はそのような見方をとらない。あくまでも伊都子が主導権を取り、垠との結婚にかならずしも乗り気でなかった方子の気持ちも変えさせた、という、読者を納得させる主張をくりひろげている。
ただ、これで終わってしまったら、『李王家の縁談』は、伊都子をいわば「進んだ女」として礼賛するだけの小説になってしまう。そこで着目しなければならないのは、本書の最後に次のような伊都子の日記の一節が引用されていることである。
もう/\朝から御婚約発表でうめつくし、憤慨したり、なさけなく思ったり、色々。日本ももうだめだと考へた。
この『御婚約』とは、時の皇太子明仁親王と、正田美智子嬢の婚約である。日記の日付は昭和三十三年十一月二十七日。この日、なんと「平民」の女性が、次代の天皇の妃となることが発表されたのだ。
前日、伊都子は妹の松平信子から電話をもらった。信子の夫恒雄は、会津藩主家の出で、駐英大使や宮内大臣を歴任し、戦後は参議院議長となったエリート中のエリートである。
信子は伊都子に、「皇后陛下は皇太子殿下のご結婚に反対で、ご機嫌が悪くていらっしゃる」と言った。そして伊都子も皇后の不満に同感だったのだ。
当時、天皇の侍従でのちに侍従長になる入江相政の日記(昭和三十四年三月十二日)には、皇后の不満が具体的に書かれている。
皇后さまが今度の御慶事の馬車六頭、御大礼の時の御自身のも四頭だつた、憤慨だとかおつしやつたとの事。
今度の御慶事とは、四月十日におこなわれる予定の皇太子結婚の儀。
その時のパレードで、皇太子と美智子妃の乗る馬車は六頭の馬で引かれるようだが、自分のときは四頭だった、と皇后は憤慨している――なんとも子供っぽい皇后の不満に、入江らもあきれたようだ。
しかし、入江のこの日の日記にはこうもある。
御前に出たら美智子さんの事について非常に御期待になつてゐる事をいろ/\仰せになる。
天皇は長男の結婚相手に期待を寄せていたのだ。
昭和の天皇、皇后、皇太子、皇太子妃についての林真理子作品を、ぜひとも読んでみたい。さすがに宮内庁もいまは「申し入れ」はしないだろう。
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