2025年度最注目ミステリ! 長岡弘樹さんの新警察小説シリーズ『交番相談員 百目鬼巴』から、第一話「裏庭のある交番」を丸ごと公開!
- 2025.03.14
- ためし読み
ジャンル : #エンタメ・ミステリ
警察を退職し、嘱託で交番相談員として働く百目鬼巴(どうめき・ともえ)。見た目も物腰も普通の60代女性ですが、一緒に働く若手警察官を唖然とさせるほど切れ者で――。
4月9日発売の『交番相談員 百目鬼巴』の刊行を記念し、第一話「裏庭のある交番」を無料公開します。同じ交番で勤務する警官二人が自殺を遂げるこの事件、百目鬼の見立てとは? 読み終わればきっとあなたも「どうめきともえ、何者なんだ……?」となるはず!
裏庭のある交番
1
目が覚めたのは、詰所(つめしょ)の方から話し声が聞こえてきたからだった。
「おまえなあ、トイレの換気扇を直しておけって、前からおれが言ってるだろ。回るとカラカラうるさくて、落ち着いて用が足せねえだろうが」
これは田窪の声だった。
「すみません。ほかの仕事が忙しくて、つい忘れてました……」
消え入りそうなこの返事は、安川が発したものだ。
ぼくは休憩室の布団で横になったまま、窓の方を見やった。趣味の悪い花柄模様のカーテン。その向こう側は、もうかすかに明るい。
左腕を目の前にかざした。腕時計のボタンを押し、文字盤のバックライトを点灯させる。午前四時だった。あと三十分したら、安川と一緒に警(けい)らへ出る予定になっている。
「それとな、おまえ、今月に入ってから自転車窃盗の検挙が一件もねえってのは、どういうことだよ」
「……申し訳ありません」
「今月はもう、うちの管区で何台盗まれてるのか、知ってんのか」
「すみません」
「ったく、それしか言えねえのかよ。謝罪マシーンか、てめえは」
会話が途絶えたかと思うと、ピューと甲高い笛のような音が聞こえてきた。これは田窪が立てた音だ。
「おれもな、上からさんざん言われて、かなりまいってんだよ」
「今日こそ捕まえますから、チャンスをいただけませんか」
「待て待て。こっちが闇雲に張り切ったところで、泥棒さんの方から都合よく現れてくれる保証はねえだろ」
「……そうですね」
「こういうときはな、奥の手があるんだよ。警察学校でも教えていない、とっておきの方法がな」
「本当ですか」
「おれがおまえに噓ついてどうするよ」
「申し訳ありません。 ――その方法、教えていただけますか」
「知りたいか」
「お願いしますっ」
ばっ、と何かが空(くう)を切る音が聞こえてきた。たぶん安川が田窪に向かって思いっきり頭を下げたのだろう。
「じゃあもっと顔を近づけろ」
田窪の声が小さくなった。
耳をそばだてたが、どうしても声を聴き取ることができなかった。
ふわーっ。ぼくは、わざと大きな声を上げて欠伸をしてみせた。そうしてこちらの気配を相手に伝えてから起き上がり、靴を履いて詰所へと通じるドアを開けた。
「おう、平本。しっかり眠れたか」
「はい。ぐっすりと」
噓だった。警察官になって三年が経つが、交番の休憩室で熟睡できたことなど一度としてない。
見ると、田窪は手に小さな箱のようなものを持っていた。この交番を出てすぐのところに飲料水の自販機が置いてある。そこで売っているパック入りのトマトジュースだ。
パックにはストローが刺さっている。田窪はそのストローを下唇のあたりにつけ、口をすぼませ、息を吹きかけた。またピューと音が鳴る。
顔を洗ったり、身支度をしているうちに、もう午前四時半が迫っていた。
そろそろ出ようか、の合図を安川に送ると、彼は青白い顔で頷いた。
「では、警らに行ってきます」
ぼくが田窪に言うと、彼はまたストローを笛のように吹いて音を出した。それが「おう、行ってこい」という言葉の代わりらしい。
安川と一緒に南原交番を出た。
建物の北側に小さな駐輪場が設けられていて、そこに白い自転車が三台並んでいる。この三台は、警らだけでなく、署と交番を往復する際にも活躍する相棒たちだ。
警察官の乗る自転車には、前部に筒状の鞘(さや)が取りつけられている。そこに警棒を差し込んでから、サドルにまたがった。
いまは六月下旬。一年で最も日が長い時期だから、午前四時半ともなれば自転車のライトを点灯させる必要もなかった。ただ、時折ぐっと冷え込む朝もあり、寒暖の差がつらい。そんな時は薄手のコートが欲しくなる。
普段なら仮眠をとっている時間帯だった。こうして警らに出たのは、最近、マンションや事務所の駐輪場から自転車が盗まれる事件が相次ぎ、パトロールを強化するように上から通達が出たからだった。
しばらくは、ぼくも安川も無言でペダルを漕ぎ続けた。
斜め前にいる安川は、きょろきょろと落ち着かない様子だ。警らに出た直後からそうだった。人気(ひとけ)のない繁華街の歩道をゆっくりと進みながら、左右にせわしなく視線を送っている。
どうやら、ビルとビルの間にある細い通路を注視しているようだ。
ぼくは少しスピードを上げ、安川の真横を並走するようにしながら、
「なあ、タカポン」
彼をあだ名で呼んだ。名前が隆保(たかほ)だから、それをもじって、警察学校時代にぼくがつけたあだ名だ。
ペダルを漕ぎ続けながら、安川が振り向いた。
「さっき、田窪主任と話をしていたよな」
「なんだ、聞いてたの」
「聞こえたんだよ。盗み聞きしたわけじゃない。自転車盗難の検挙数が少ない、って小言を食らっていたように聞こえたけど」
「……そうだよ」
「で、その問題を解決するいい方法があるそうじゃないか。それってどんなだ?」
安川は返事をしなかった。彼は明らかにこの話題を避けたいようだったので、ぼくもそれ以上は追及しなかった。
またしばらく無言でパトロールを続けていると、
「あ、平本くん、待って」
安川は急に自転車を止め、ビルとビルの隙間に入っていった。
そこには自転車が一台置いてあった。いや、タイヤがパンクしているところを見ると、放置されていた、と言った方が正確だろう。
ごく普通のシティサイクル、通称ママチャリだ。銀色のフレームはすっかり艶を失っているが、パンクさえ直せば乗れないことはなさそうだ。サドルの下にはちゃんと防犯登録証も貼ってある。
「これ、明らかに放置自転車だよね」
「みたいだな。 ――おい、まさか、持っていくとか言い出すんじゃないだろな」
また安川は返事をせず、黙ってママチャリに目をやっている。
「放っておけよ、こんなもの」
何も仕事を増やすことはない。放置自転車をどうにかしてくれ、という相談はよく交番に持ち込まれるが、その都度こっちだって迷惑しているのだ。
――自転車の登録番号を調べ、盗難されたものと判明すれば警察で引き取ります。しかし、そうでない場合は放置されていた土地の所有者が処分してください。
現在、ぼくの勤務する署ではそういう方針を取っていた。
「タカポン、勘違いすんなって。おれたちの仕事は、自転車を盗んでいくやつらを捕まえることだ。放置自転車の処理じゃないだろ」
「……分かってる」
ぼくは一足先に通路から出て、自転車のベルを一つチーンと鳴らした。
「ほら、さっさと先に行こう」
もう一度ベルを鳴らしたところ、ようやく安川も隙間から出てきて、自分の自転車に跨(またが)った。
2
午前中は署で仕事をし、午後から交番へ向かった。
署から交番へ行く途中、長い上り坂がある。ここを通るときは、なぜか向かい風が吹いていることが多い。そういう場合はペダルが重く、かなりしんどい思いをする。
交番の駐輪場に自転車を停めると、建物の東側に設けられた出入口を素通りし、南側にある通路へと入っていった。
その際、ちらりと中を覗いたところ、詰所には田窪の姿はなかった。
安川もいない。
彼らの代わりに来客応対用のカウンター席についているのは、女性警察官の制服を着た六十代の女性だった。非常勤の交番相談員、百目鬼巴(どうめきともえ)だ。
ぼくは南側の通路を抜け、西側にある裏庭へと出た。
ここは幅五メートル、奥行き三メートルといった狭さだが、いろんな植物の鉢植えが並んでいる。加えて表通りから見えない位置にあるため、心の休まる場所だった。
日本全国には交番が六千か所以上あるそうだが、繁華街にあって庭つきというケースは、かなり珍しいのではないかと思う。
庭の東側、つまり交番の建物のある側には水道が設けてある。地面からパイプが伸びていて、
その先には蛇口が、そして蛇口の先には長いホースが取りつけてあった。
水道の向こう側が、ちょうど交番の休憩室になっている。休憩室に入り、花柄模様のカーテンを開け、そして窓ガラスも開ければ、すぐ蛇口に手が届く、といった位置関係だ。
この庭から見て、休憩室の右側がトイレだった。
壁の上の方に、例のカラカラうるさい換気扇のファンが見えている。その真下には燕(つばめ)が巣を作っていた。いまは隠れていて見えないが、あの中に三羽ほど雛がいることは以前から知っている。
ホースを手にして、蛇口のハンドルを回した。庭の植物たちに水をやるのは、主にぼくの仕事だ。
ホースの先端を指でつぶし、どの植物にもまんべんなく水がかかるようにする。
その仕事をそろそろ終えようとしたところ、休憩室の方から大きな欠伸が聞こえたように思った。
窓は細く開いていて、花柄模様のカーテンも中途半端にしか引かれていなかったため、隙間から中を覗くことができた。
畳の上で、田窪の巨体がごろりと横になっている。
本当なら詰所にいなければならない時間帯のはずだが、来客の応対は百目鬼がてきぱきとこなしてくれるから、サボりを決め込んでいるようだ。
「主任、たいへんお疲れさまです」
皮肉を込めた口調で言ってやったが、
「おう、帰ってきてたのか。ご苦労さん」
寝ぼけているせいか、田窪はこっちの底意にまるで気づかないようだった。
水やりを終え、ぼくは詰所に入っていった。
「たいへんお疲れさまです」
さっき田窪にかけたのと同じ言葉で百目鬼に挨拶をする。
「ああ、平本くん。お帰りなさい」
百目鬼巴 ――名前はやけに恐そうだが、実際は性格の穏やかな初老の警察OGだ。
県警本部の地域、交通、生活安全、警備、総務、警務とひと通り渡り歩いてきたと聞いている。科学捜査の知識も豊富に有しているらしく、そのため刑事部から「未解決事件の捜査にあたってほしい」と熱烈なお呼びが掛かっていたようだが、その仕事は嫌だと断り続けたらしい。
最近の若い連中には、忙しいからという理由で刑事畑を敬遠する者が多い。だが、百目鬼が現役だった時代なら、まだまだそこは花形部署だったはずだ。
以前、「なぜ未解決事件の捜査が嫌だったんですか」と訊いたことがある。
百目鬼の答えは、「ものごとをほじくり返すと、ろくなことがないから」だった。その言葉の真意は、いまに至るも、ぼくにとっては不明のままだ。
ともかく、今年の三月に彼女は定年を迎え、四月から非常勤の相談員として、この交番に週三回ほど顔を出すようになっていた。
まだ休憩室から出てくる気配のない田窪を気にしながら、
「お茶を淹れましょうか」
百目鬼にそう声をかけたときだった。
「あのう、すみません」
入口で声がした。見ると、お世辞にも身なりがいいとは言えない五十がらみの男が立っている。
「ちょっと助けていただきたくて、お邪魔しました」
百目鬼が立ち上がって、男に軽く会釈をした。「わたしが御用を伺いましょう」
これから遠方にある自宅へ列車で帰らなければならないが、財布を落としてカードもなくして困っている。それが、この男が持ち掛けてきた相談の内容だった。鉄道の運賃は七千円ほどかかるらしい。
「困りましたね」百目鬼は椅子の背凭(せもた)れに体を預けた。「たしかに公衆接遇弁償費というものがありますが、いくらなんでもそんなには貸せません」
男は肩を落とした。「……ですよね」
「あなた、ご職業は何ですか」
「トラックの運転手をしています」
「そうですか。 ――ところで、どうでしょう。いまから、あなたはわたしの友人になりませんか」
「は?」
ぼくが淹れた茶を、百目鬼は男にすすめながら続けた。「この場で、わたしと友達同士になってくれませんか」
「……ええ、別に構いませんけど」
「では」
百目鬼は制服のポケットから何かを取り出した。自分の財布のようだ。そこから一万円札を一枚抜き取り、男の前に差し出す。
「これをお貸しします。友人として」
「助かりましたっ。ありがとうございますっ」
相談者の男は、一万円札を押し戴くようにして、何度も頭を下げつつ交番から出ていった。
「いいんですか、あんなことして」男の後ろ姿を見ながら、ぼくは百目鬼に言った。「寸借詐欺かもしれないじゃないですか」
「いまの人、トラックの運転手をしてるって言ってたよね」
「ええ。でも本当は無職かもしれませんよ。言葉だけで信用できますかね」
「平本くんは、あの人の手を見たかな」
「手……? いいえ」
「右手と左手の甲で、肌の色が違っていたでしょ。右手がずっと黒かった。つまり日焼けをしていた」
そんなことには、まったく気づかなかった。
「右ハンドルの車にいつも乗っていたら、どうしてもそうなるよね」
「ええ。それで、噓をつく人じゃない、と思えたわけですか」
「そう。だからお金を貸したの」
ぼくは百目鬼の顔を見据えた。思わずそうしていた。
外見に特別なところは一つもない。中肉中背のどこにでもいそうな普通のおばさん。そうした陳腐な表現こそが一番似合うこの人が、現役時代は刑事部から熱心にラブコールを受けていた。その理由が、いまちょっとだけ分かったような気がした。
「ところで、安川くんはどうしたのかな」
そうなのだ。実はさっきからぼくもそれを気にしていた。
安川と一緒に早朝のパトロールに出たのが四日前だ。あの日以来、シフトが重なることはなく、彼とは顔を合わせていなかった。メールで近況を訊ねてはいた。なのに、いっさい返信がなかったのはどうしたことか。
今日は久しぶりに相勤(あいきん)だから会えると思っていたのだが、なぜか予定の時間になってもまだ安川は顔を見せない。
このとき、やっと休憩室から田窪が出てきたので、彼に訊いてみることにした。「安川はどうしました。遅れてくるんですか」
「いや、今日は休みだ」
「本当ですか。そんな連絡は安川から受けていませんが」
欠勤するときは、決まってぼくにも個人的にメールをよこすのが常だった。
「急病か何かでしょうか」
「どうだろな」
言葉を濁し、田窪は珍しく自分の方から目を逸らした。
ぼくは夕方まで交番にいたが、安川のことが気になり、仕事にほとんど身が入らなかった。
午後五時。シフト明けの時間になると、まだ残っていた書類仕事を放り出し、急いで自転車に跨った。
帰りは下り坂だから楽だ。飛ばせるだけ飛ばして寮に帰ると、周囲が妙に騒がしかった。署の隣に建つ四階建ての古びた建物。その出入口を遠巻きにするような形で人だかりができているのだ。
ほとんどがジャージか普段着姿の若い男ばかり。なかには警察官の制服を着ている者もいる。ほぼ全員が顔見知りだ。つまりこの独身寮に住んでいる連中が、建物の外に出て集まっているのだった。
いや、もっと正確に表現すれば、建物から慌てて出てきた、もしくは急かされつつ追い出された、といった様子だ。
人垣を搔き分けて前に進んでみると、出入口の前に救急車が停まっているのが見えた。
最前列には、ぼくの隣室に住んでいる後輩がいた。肩を摑んで声をかけてみる。「この騒ぎは何だ?」
「事故があったみたいですよ」
「事故って、どんな」
嫌な予感がして頰の肌が粟立(あわだ)つのを感じたとき、建物の出入口から救急隊員が担架を担いで出てくるのが見えた。隊員たちは全員、顔に面めん体たいと呼吸器を装着していた。
火事か? そう思って建物を見やったが、煙はどこからも上がっていない。
はっきりと確認できたのは、担架で運ばれてきた人物の顔が安川のものであること、それだけだった。
3
今日は夕方まで田窪と二人だけの勤務だ。
ぼくがカウンター席についていると、出入口の向こう側に小さな人影が見えた。
入ってきたのは小学四年生ぐらいの男児だった。
「自動販売機の前に、これが落ちてました」
そう言って、男児はカウンターに硬貨を載せた。五十円玉だ。
「ちゃんと届けてくれてありがとう。偉いね」
そうは言ったものの、内心では迷惑していた。五十円玉一つでも届け出があった以上、書類をきちんと作成しなければならない。まったく面倒な話だ。
ぼくは「拾得物件預り書」の用紙を取り出した。
男児から聞き取りをしつつ書類を作成していると、田窪がそばに来てカウンター上の五十円玉を手にした。
「なあ、坊や」田窪は男児に向かって、ぬっと顔を近づけた。「退屈だろうから、おじさんが芸を見せてあげようか」
そう言うなり、五十円硬貨をぴたりと唇に当て、頰を膨らませる。そして息を吐き出した。
硬貨の穴がプピューと妙な音を奏でる。
「どうだ、上手いだろ」
そうしているあいだに、ぼくは預り書の記入を終えた。これはカーボンコピー式になっている。下の控えの方を切り取り、男児に預けた。
「これ、お父さんかお母さんに保管してもらってね」
子供がいなくなると、ふたたび交番内は静寂に包まれた。
「安川のやつ」ぼくは田窪に言った。「いまごろ天国でどうしているでしょうね」
彼が寮の部屋で自殺してから、五日が経っていた。
そのあいだに、ぼくは安川の両親から遺書を見せてもらった。
【自身の悪行を恥じた結果、自死を選ぶことにしました】との一文から始まり、両親や世話になった人への感謝と、死を選んだことに対する謝罪の言葉が便箋(びんせん)一枚にびっしりと綴られていた。
【いま手元に、酸性の洗剤と硫黄入りの入浴剤がありますので、これで硫化水素ガスを発生させて死ぬことにします。わたしの遺体を発見した方は換気にご注意ください。そうだ、それで急に思い出しましたが、交番の換気扇を直す仕事をやり残してしまいました。申し訳ありませんが、親友の平本くん、どうかわたしの代わりにお願いします】
ぼくの名前も、そんな形で文面に登場していた。
誰かを恨むような言葉は一言もなかった。そこが安川らしいところだ。
若手警察官の自殺は、それほど珍しい事件ではない。新聞記事の扱いは地元紙でも大きくなかったし、全国紙では載せていないところもあった。
「天国のベッドは柔らかいだろうから、ぐっすり寝ているんじゃねえか。 ――それにしてもまいったぜ」田窪は短く刈り込んだ頭に手をやった。「今回のことは、全部おれのせいかもしれねえな」
「と言いますと?」
「実は、先月、あいつにきつく発破(はっぱ)をかけたんだよ。自転車盗犯の検挙数が少ないってな」
「え、そうだったんですか」知らないふりをして、ぼくはそのように応じた。
「それで、あいつに教えてやった方法があるんだ」
「どんな方法です?」
「なあに、大したことじゃない。その辺から放置自転車を拾ってきて、張り込みしやすい場所に置いておくんだ。そして」
「もしかして、誰かに盗ませるんですか」
「おお、冴えてんじゃねえか。そのとおりだよ」
実はすでに寮内に流れていた噂で、ぼくもだいたいのことは承知していた。安川は実際にそれをやってしまったらしいのだ。
彼はビルの隙間に放置されていたあの自転車を拾ってきて、公園近くの路上にわざと置き、植え込みに隠れて張り込みをしていた。
やがて自転車を持っていこうとする者が現れた。公園の近所に住む大学生だった。安川は植え込みから飛び出し、大学生を現行犯で逮捕した。だが、この大学生の母親が、路上に自転車を置く安川の姿を目撃していた。
安川は、占有離脱物横領の容疑で書類送検され、上層部から謹慎を命じられていた。だから四日間も連絡が取れない状態だったのだ。
結局、自ら手を染めた不正な行為を苦にして、彼は硫化水素ガスを吸ってしまった……。
「あいつ、真に受けやがって」
そう言って田窪は、ボールペンのキャップを外し、それを顎あごのあたりに当てた。ピュルルと力のない音が出る。
彼は最近、趣味でサキソフォンを始めたらしい。そのため、吹いて音が出そうなものがあれば、とりあえず口元に持っていく、という癖がついてしまったようだ。
「おれは冗談のつもりで言ったんだ。実際にどこかの県警で、それをやった警察官がいてな、問題になったことがあった。だから、まさか安川が本当に実行するなんて思っていなかった」
「そうだったんですね」
帽子を手にして、ぼくは椅子から立ち上がった。
「署の地域課に呼ばれていますんで、ちょっとこれから行ってきます。休憩室に差し入れのチョコ菓子を置いときました。どうぞ食べてください」
「おう、悪いな」
地域課での用事を終え、交番に戻ったのは夕方だった。今日は無風だから、坂道を漕ぐのが楽だ。
建物に入る前、いつものように裏庭に回った。
水道のハンドルを回し、ホース内に溜まっていた水分を地面に捨ててから、鉢植えに水をやる。
建物の方を振り返ると、この前のように休憩室の窓が少し開いていた。
覗いてみたところ、これも前回と同じように田窪が畳の上で横になっている。
ぼくは窓の隙間に顔を近づけ、中に向かって声をかけた。
「平本です。戻りました」
返事がない。
「田窪主任。いつまでも休憩していてもらったら困りますって。今日は百目鬼さんの応援がない日ですから、詰所が無人のままになってますよ」
声を強めてそう言ったが、やはり田窪からの応答はなかった。
植物に水をやり終えてから、ぼくは建物に入った。
休憩室へ上がり、田窪の巨体を揺り動かしてみる。
いくら強く揺すっても、彼は目を覚まさなかった。
4
交番のトイレに入った。
センサーが作動し、自動で照明が点く。経年劣化で調子のおかしくなった換気扇がカラカラとうるさい音を立てている。
安川の遺書を思い出した。彼はこの換気扇を直しておくよう、田窪から言われていた。その仕事は彼の遺志によってぼくの手に託されていたのだが、何かと忙しくてすっかり忘れてしまっていた。
小用を足し終えたあと、洋式便器の上を見やった。そこには扉つきの棚が設けてある。
扉を開けると、洗剤が入っていた。どこにでも普通に売っている酸性のトイレ用洗剤だ。
床に目をやる。
洋式便器の横。ここに粉末タイプの入浴剤の袋が落ちていた。硫黄入りのやつだ。そのように報告書には記載してあった。
ぼくが田窪の死を署に通報して、駆けつけた捜査員が現場を調べた後にまとめた報告書だ。ぼくも事件関係者の一人だから、それを閲覧することができた。
司法解剖の結果、田窪の死は硫化水素による中毒死と断定された。
視線を洗面台に移した。報告書によれば、田窪はこの中に入浴剤の粉末を撒き、洗剤を垂らして硫化水素ガスを発生させたことになっている。
硫化水素ガスで自殺を企てた場合、即死するとは限らない。濃度によっては死亡するまでしばらく時間を要するケースがある。
田窪のケースでも即死ではなく、トイレから出て休憩室まで戻る時間はあった。死の間際になって、田窪は死に場所がトイレであることを嫌ったのではないか。そこでトイレから出て、休憩室まで力を振り絞って移動してから息絶えた。それが報告書の見解だった。
トイレから出た。
クローザーがついているから、ドアはひとりでに閉まる。照明も自動で消えたが、換気扇のカラカラ音はまだ聞こえている。こちらは人の気配がなくなって以後も十分間だけ回り続ける仕様になっているせいだ。
詰所に戻って勤務表に目をやった。今日の午前中、交番にいるのはぼくと百目鬼の二人だけ、ということになっている。
その百目鬼はまだ来ていない。
近くの自販機で買ったパック入りのオレンジジュースをカウンターに置いた。それにストローを刺したとき、交番に入ってきた人物がいた。百目鬼ではなく、郵便局の配達員だった。
「現金書留です。印鑑かサインをお願いします」
百目鬼宛にだ。ぼくが代理で受け取りのサインをし、彼女が来るまで預かることにした。
配達員が出ていってから二、三分ほどして、今度こそ百目鬼が姿を見せた。今日は少し疲れたような顔をしている。
「たいへんなことになっちゃったわね」
この交番に詰めていた人間が二人まで自殺してしまったのだから、安川のときは鈍い反応しか見せなかったマスコミも、今回は大騒ぎをしている。
田窪が死んでいるところを最初に発見したぼくも事情を聴取されたが、同僚と先輩をいっぺんに失った心痛を斟酌(しんしゃく)してか、調べに当たった担当者も始終どこか遠慮がちだった。
――自分が冗談のつもりで指南した自転車窃盗犯を挙げる方法。それを部下の安川巡査が真に受けて実行したことに、田窪巡査部長は深く責任を感じていた。そんな折、安川巡査が死を選んでしまったことで、さらに自責の念を深め、自らも同じ手段による自死に至った。
署長は、昨日の記者会見でそのように発表している。
「田窪主任はこのところ何かというと」
ぼくはオレンジジュースのパックに刺したストローを顎のあたりに当て、息を吹いた。
スピュー、と間抜けな音が出る。
「こんなことをしていましたね」
「吹奏楽器に凝り始めた人って、たいていそんなものよ」
「子供が道端で拾ってきた五十円玉でも、平気で唇に当ててましたっけ」
「それだけは真似しない方がいいと思う」
「ですよね。衛生観念がなさすぎますよ。 ――そう言えば、これ、受け取っておきました」
百目鬼に現金書留の封筒を差し出した。
「ありがとう」
彼女はその場で封を切った。中から出てきたのは一万円札だった。手紙も一緒に入っている。
百目鬼が開いたその文面を、ぼくは脇から覗き見た。
【その節は助けていただき、まことにありがとうございました。利子をつけてお返ししようと思いましたが、それではかえって百目鬼さんが恐縮してしまうかと思い、申し訳ありませんが、借りた分だけをお返しします。またご挨拶に伺います。友人より】
「もしかして、先日、財布を落として困っていた男の人からですか」
「そう」
「本当に返済してきたんですね」
「だから言ったでしょ。 ――わたしが四十年間の警察生活で学んだことの一つを教えてあげましょうか」
「ぜひお願いします」
「『犯人逮捕に結びつく一番のきっかけは、刑事の名推理なんかじゃなくて、住民からの通報である』ってこと」
だから市民には親切にしておかなければならない、というわけか。なるほど、先達の考え方は深い。いい勉強になる。
「いい勉強になった。そう思ったでしょ」
簡単に思考を見透かされて、頷きながら頰が火照るのを感じた。
「じゃあ、もう一つ教えてあげましょう。ついてきて」
百目鬼は出入口の方へ向かいながら、
【御用のある方は左のボタンを押してください】
そう書かれたプレートを、カウンターの上に置いた。
交番に入ってすぐ、左側の壁にはチャイムのボタンが設置されている。その音がポーンと鳴れば、たとえ裏庭にいても人が来たことが分かる仕組みだ。
建物から出て百目鬼が向かった先は、まさにその裏庭だった。
5
「あれ見てごらん」
裏庭に着くと、百目鬼は建物に向かってトイレのある方を指差した。高い位置に換気扇のファンが見え、そのちょうど真下に燕が作った巣がある。いま百目鬼の指先は、その巣を指し示しているようだ。
「子育て中の燕って、すごく頻繁に餌を運ぶんだよ」
彼女の言葉どおり、待つほどもなく親鳥が飛来して巣の縁へりに止まった。同時にピイピイと子の鳴き声がし、いままで巣の底に隠れていた雛たちの顔が覗き見えた。
「可愛いわねえ」
目を細め、しみじみとした口調で言う百目鬼を横目で見やりながら、ぼくは、そう言えば、と思った。
そう言えば、百目鬼の家庭はどうなっているのだろう。子供や夫はどんな人なのか。いや、そもそもそういう家族がいるのかいないのか。知り合ってから三か月ほどになるが、ぼくはこの人の私生活をまるで知らないことに、いま初めて思い当たった。
「でも、あの燕が何か?」
いつまで経っても百目鬼が次の言葉を口にしようとしないため、しびれを切らして、こちらの方からそう水を向けた。
「田窪主任は」百目鬼は言った。「トイレ内で硫化水素を発生させた。そういう結論だったよね」
「ええ」
「ところで、巣のすぐ上に換気扇のファンがあるでしょ。あれって、トイレに入るとセンサーで回り始め、人が出たあとも十分間は回転を続けるようになっているよね」
「そうです」
「だったら、おかしいと思わない?」
「何がです」
「自殺を図った田窪主任がトイレから出る。ドアはクローザーでひとりでに閉まる。そして換気扇はあと十分間は動き続ける。こういう状態だったら、絶対に燕の雛たちはトイレに立ち込めた硫化水素ガスを吸っているはずだよね」
「……ですね」
「あんなに小さなか弱い生き物だもの、ちょっとでも有毒ガスを吸ったら、すぐにコロリと死んじゃうはずじゃない?」
異論はなかった。
「だけどほら、ああしてちゃんと生きている。おかしいでしょ」
「風のせいでファンから出た有毒ガスがすぐ横に流れた、そのせいで吸わなかった、とは考えられませんか」
「考えられない。だって、あのときは無風だったもの」
たしかにそのとおりだ。坂道を自転車で上るのが楽だった記憶がある。
「呆れたことに、報告書にはトイレの換気扇と燕の巣についての記述が一行もないのよ」
「おっしゃるとおりです。言われてみれば、こういう捜査も、けっこう杜撰(ずさん)なんですね」
「ええ。先入観があるとこういう失敗をする。今回は、田窪主任の自殺場所はトイレだ、と頭から決めてかかったせいで、完全に見落としたわけ」
「すると、主任はトイレで硫化水素ガスを発生させたのではない、ってことになりますね」
百目鬼はゆっくりと首を縦に振った。
「じゃあ、休憩室で発生させたんでしょうか。死亡現場である、あの部屋で直接」
今度は首を横に振った。「休憩室にはそれらしき形跡がなかった」
「ですよね。でも解剖の結果、硫化水素で死んだことは確実だし……。じゃあ、いったい主任が自殺したときの状況って、どんなだったんでしょう。百目鬼さんはどうお考えですか」
「そうねえ……。犯人はどうしたかというと、おそらく」
犯人 ――田窪が死亡した経緯を根底からひっくり返す言葉。それを百目鬼は何の躊躇(ためら)いもなくさらりと口にした。そのせいで、ぼくもうっかり聞き逃すところだった。
「待ってください。いま『犯人』と言いましたよね。ってことは他殺なんですか」
何を当たり前のことを言ってるの、といった顔で頷いてから、百目鬼は水道栓の方へ歩み寄った。そして蛇口に繫つながれているホースを手にする。
「おそらく、これを使ったんじゃないかしら」
「ホースを、ですか」
「ええ。まずこうやって」
百目鬼はホースを軽く振り、遠心力を使って中に溜まっていた水を少しだけ外へ出した。
「ちょっとした空洞を作ってから、ホース内に硫黄入り入浴剤の粉末を入れるの。そして酸性洗剤を注ぎ込む。まあ、順序はどっちでもいいと思うけれど、とにかく、そのあいだ犯人は、用心のために息を止めていなくちゃいけないわね」
「ですね」
「そうしてからホースを、こうしておく」
百目鬼は休憩室の窓を外から細く開け、狭い隙間にホースの先端を差し込んだ。
ホースは自重のせいで下にずり落ちようとするが、窓が嚙む力の方が強く、そのまま固定されている。
「それから、どうするんです」
「どうもしない。こうやっておいたら、あとは休憩室に田窪主任が来るのを待つだけ」
「ですが、このままでは無理ですよ」
ぼくはホースを指差し、それが自分の重さで下に落ちようとしていることと、そのせいで休憩室に入り込んでいる先端部分が斜め上を向いていることを指摘した。硫化水素は空気より重いから、この状態ではホース内に留まり続けるだけで、外へ漏れ出したりはしない。
「それとも、田窪主任が休憩室に入ってきたのを見計らって、犯人はこれを」
ぼくは蛇口のハンドルに手をかけた。
「捻ったということですか? そうやって水の力でホースの中に溜まっているガスを外に押し出した、ということでしょうか」
「違うよ。そんなふうにしたら、どうしたって水が余分に出て、休憩室の畳が濡れるでしょ。そんな異変が現場に残っていたら、誰だって不審に思うじゃない」
「ですよね」
たしかに、畳が濡れていたという記載も報告書にはなかった。
「余計なことは何もしなくていいのよ。本当にこのままにしておくだけ。あとは休憩室に田窪が入ってきさえすればよかった」
ここで、ぼくは思わず怪訝(けげん)な表情をしたに違いない。百目鬼が主任の名字を呼び捨てにしたからだ。
その百目鬼はというと、いっさい表情を変えずに、
「さ、戻りましょ」
それだけを言い、南側の通路をさっさと帰っていく。
ぼくは慌てて彼女の背中を追った。
幸い、ぼくたちが裏庭にいるあいだ、交番を訪れた市民はいなかった。
建物内に入った百目鬼は、このまま通常業務に取り掛かるのかと思ったが、そうではなかった。詰所を素通りし、靴を脱いで休憩室へ上がり込む。
いいように振り回されている自分を感じつつ、ぼくも小上がりになった和室へ足を踏み入れた。
「ここで死んでたのね、田窪は」
また呼び捨てにして、百目鬼は着ているベストの胸ポケットに手をやった。そこに差し込んでいた何本かのボールペンのうち一本を抜き取る。ノック式ではなくキャップを被せてあるタイプのボールペンだ。
百目鬼はそのキャップを外し、口元に持っていった。唇をすぼめて息を吹きかけると、ヒュウと掠かすれた音が鳴った。
「田窪はサキソフォンに、すごく凝り始めていて、こういう癖がついていたんだよね」
「ええ。さっきも言ったとおり、吹いて音が出そうなものなら、どんなものでも吹いてみようとしていましたね」
「だとしたら、田窪にとっては ――」
百目鬼はボールペンのキャップを元に戻してから窓際に近づいた。
ホースは窓に挟まったままになっているから、その先端部分は、いまも斜め上を向いた状態でこの部屋へ入り込んでいる。それを指差し、彼女は言った。
「これはホースではなく『吹いて音が出そうなもの』だったんじゃないかな」
そして百目鬼は、ホースの先端部分を手に持って引っ張った。
動いたホースに押される形で窓が少し開く。
「もちろん、田窪はどうしてホースがこんなふうになっているのか不審に思ったはず。だけど、まさか内部に有毒ガスが仕込まれているとは予想もしなかったでしょう。とにかくサックスに凝っている彼は、これまたいい練習台が見つかったと思って、こうして吹いた」
百目鬼はホースの先端を顎のあたりに持っていき、唇をすぼめて息を吹きかけた。
ボウーッと、ボールペンのキャップなどとはまるで違う迫力のある音が出た。
「こんないい音が出るなら、きっと調子に乗ってもう一度吹こうとしたでしょうね」
ホース先端を顎の位置につけたまま、百目鬼は深く鼻と口から息を吸い込んでみせた。
「ね。こうして哀れ、田窪はホース内の硫化水素ガスを胸いっぱいに取り入れてしまったわけ。すると当然こうなる」
百目鬼はホースを手離した。
ホースの大部分は外側にある。室内に入れてあった部分は、自重であっという間に窓の外へと引き摺られるようにして消えてしまった。
続いて百目鬼は、畳の上にばたりと倒れてみせた。
体の右側を下にして、しばらく動かずにいたが、そのうちごろりとあおむけになり、じっとぼくの顔を見上げてくる。
「これでよく分かったでしょ。犯人の用いた殺害方法が」
ぼくは返事をしなかった。
「もちろん犯人は証拠を隠滅したはず。田窪が死んでいるのを確認しがてら、水道栓のハンドルを回して水を出し、ホースの中に残っていた硫化水素ガス、洗剤、入浴剤を全部洗い流したことでしょうね」
百目鬼の視線が刺すように痛い。
「もちろん、自殺に見せかけるための偽装工作も怠おこたらなかった。トイレの洗面台に硫化水素を発生させた痕跡を残したり、便器の横に入浴剤の空袋を捨てておいたりと、抜かりなく手を打った」
「犯人の……」ぼくの声は掠れていた。「動機は何なんでしょうか」
「復讐だと思う。ただし自分のじゃない。親友のよ」
全身が汗ばんでいるのを感じながら、ぼくは百目鬼の口元を注視し、次の言葉を待った。
「この交番に勤務している人なら誰でも薄々感じていたはずだけど、田窪は安川くんにパワハラを働いていた。安川くんはそのせいで追い詰められ、ついには不正に手を染めて自滅していった。田窪は上辺では彼の死を残念がっていても、内心ではちっともそんなふうには思っていなかった」
百目鬼の言うとおりだ。ぼくは田窪の態度を思い出していた。
――全部おれのせいかもしれねえな。
口ではそんなことを言いながら、ボールペンのキャップでサックスの練習をしていたあの軽薄な態度を。
しばらく百目鬼と見つめ合ったあと、ぼくは言葉を絞り出した。
「つまり百目鬼さんの推理では、犯人は誰なんですか」
「そうね。犯人の特徴として、大きな条件は一つだけ。さっきもちょっと言ったけど、仇討ちを目論むくらいだから、安川くんの親友だったということ。 ――そう言えば、平本くん。田窪が死んでいるのを発見する直前、あなたは裏庭の植物に水をやったのよね」
首を動かす気力がもうなかったため、頷きは目で返した。
「すると、水道栓のハンドルを回して水を出し、ホースの中にあった硫化水素ガス、洗剤、入浴剤を全部洗い流したのは、十中八九きみだと考えていいわけだ」
もう一度、目で肯定の意を返してから、ぼくは粘ついた口を開いた。
「その犯人を……百目鬼さんは、どうするつもりなんです」
「どうもしない」
それが彼女の口から、何の抵抗もなくするりと出てきた答えだった。
「放っておく。わたしはただ、せっかく考えついた答えを誰かに話したかっただけ」
ここでようやく百目鬼は体を起こした。
「本当だよ。前にもわたしは言ったでしょ。ものごとをほじくり返すと、ろくなことがない、って」
そのときポーンとチャイムの音が鳴った。来客のようだ。
「すみません、この近くでスマホを拾ったんですが」
詰所の方から聞こえてきたのは若い女性の声だった。拾得物の届け出らしい。
「はい。ちょっとお待ちください。いま行きますので」
百目鬼はがらりと口調を変えて明るい声で応じ、こちらの肩を強めに叩いた。
「ほら、ぼやぼやしない。きみが安川くんの分まで働いてあげなきゃ」
その言葉には、首でしっかりと頷くことができた。そしてぼくは小上がりを降り、詰所に通じるドアを開けた。
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