
〈「わかりました。もう、いますから」緒方孝市に、巨人10億円のオファーを蹴って広島残留を決めさせた言葉〉から続く
「置かれた場所で咲きなさい」というのは、ノートルダム清心学園理事長だった渡辺和子が遺した言葉である。不平や不満だけに心を奪われることなく、置かれたところこそが自分の居場所なのだと思い定め、精いっぱいの努力を続けなさい、という励ましの言葉だ。
だが、サラリーマンにとって、「置かれた場所」が思いもよらない異次元の世界だったらどうだろう。理解のない上司に言い渡された意に染まぬ人事や出向話であったら、愚痴もなく耐えていけるだろうか。
拙著『サラリーマン球団社長』(文春文庫)は、阪神タイガース元社長の野崎勝義や広島カープの鈴木清明(現・球団本部長)が、サラリーマン社会からプロ野球の世界に飛び込み、球団と球界を変えていく実話だが、異世界で咲くことは容易なことではない。私自身も新聞記者の世界から読売巨人軍代表へと駆り出されたから、苦渋の一端が理解できる。

特に、阪神電気鉄道株式会社(阪神電鉄)の旅行マンだった野崎が申し渡された出向人事の先には、ワンマンオーナーが君臨し、欠陥を抱えるフロントや頑迷なスカウトたちが待ち構えていた。
まるでドラマを思わせるような人々の物語だが、前回紹介したカープ編が元東洋工業(現・マツダ)経理部員鈴木の転職ドラマだったの対し、タイガース編には、サラリーマン社長の野崎に「この人のためなら」と思わせる闘将・星野仙一が終盤で登場する。あなたに社長の座を譲りたい、と言わせるのである。
本書はナベツネ支配や球団危機に抗った熱い実話だが、一方では、ジリ貧の名門球団を再生させた子会社経営者と野球人の友情の物語でもある。(文中敬称略)
ダメ虎への出向
もう落ちるところはあらへん
野崎が子会社への出向を命じられたのは1996年6月のことである。彼は阪神電鉄航空営業本部旅行部(通称・阪神航空)の旅行部長だ。神戸市外国語大学を卒業し、1965年に電鉄に入社して以来、31年間、一度も転部することなく航空営業一筋に歩んできたのだ。
ところが、野球ド素人の彼に対し、電鉄本社は85年以降、優勝のないタイガースの常務(営業、総務担当)に出向せよ、と命じた。タイガースは子会社でありながら阪神電鉄よりはるかに知名度が高い人気球団だ。だが、出向者の給料は球団社長でもライバル・巨人社長の3分の1程度。スポーツ紙に「ダメ虎」と揉まれ叩かれ、辞任したり傷ついて本社に戻って来たりする者が少なくない。
野崎の妻・艶子は「夫は大丈夫やろか」と心配しつつ、こう慰めた。
「タイガースはもともとがダメ虎いうて成績の悪い球団やから、これ以上悪くならへんよ。一つでも上がればいいやない」
それはもう落ちるところはあらへん、ということや。

勝手ながら退職いたしたく
生真面目な野崎は艶子に告げた。「うちには財産もないけどな、追い詰められたときには、命を絶つ前に球団を辞めるからな」
その一方、自宅のパソコンで、
球団の経営は下手くそや
野崎は、タイガースの年間営業収入が70億円と聞いて驚いた。セ・リーグの人気を二分する巨人の3分の1もないのだ。自前の球場を持たない巨人は、東京ドームに膨大な球場使用料を払っても、なお潤っている。対する阪神は、甲子園球場という日本一広く、一種独特の雰囲気を持つ高校球児の聖地を抱えていて、このありさまだ。
その疑問に、阪神電鉄会長兼タイガースオーナーの久万俊二郎が告げた。
「阪神タイガースちゅうのはたいしたもんやないんやから、そんなに力まんでもええ。阪神電鉄の売り上げは3000億円ほどあるが、タイガースは100億円もない。ちっちゃな会社なんや。強い、弱いと騒がんでもええ」
野崎は痛感した。この人は、タイガースのもつソフトの力をわかっていない。タイガースは、阪神電鉄最大のブランドなのに、それが認識されていない。もっともっと儲かるはずなのに、これじゃあ、あかん。鉄道経営はうまくいっていても、球団の経営は下手くそや。オーナーも球団もまた、ぬるま湯に浸かっているのだと痛感した。
巨人がスマートな紳士なら、タイガースは熱狂するおっさんや。
野崎は思った。ファンはこの庶民的なデコボコチームが勝ちぬいて優勝する夢を見、その瞬間を待ち望んでいる。そして、勝てるチームを作るためには、球団オーナーというトップが大きな言葉で常に目標を示し、その土台となる経営の革新を社員に迫ることが必要なのだ。それは、素人でも分かる理屈やないか。 だが、ここでは負け犬根性が丸見えの言葉を、オーナー自らが口にしている。
(中編へ続く)
〈「うちはカネがないから、巨人さんなんかとは勝負になりまへんわ」負け犬根性が染みついた阪神に抗うサラリーマンがいた〉へ続く
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