全会一致でオール讀物新人賞を受賞、いま業界再注目のシリーズ『貸本屋おせん』ついに文庫化&新刊『往来絵巻 貸本屋おせん』刊行記念 受賞作の「をりをり よみ耽り」を全文公開!
ジャンル : #歴史・時代小説
文化年間の江戸。女手ひとつで貸本屋を営み、高荷を背負って江戸の町を巡るおせん。坂木盗難や幽霊騒ぎ、幻の書物探しなど読本に係わる事件に立ち向かう、異色の「ビブリオ捕物帳」――『貸本屋おせん』シリーズ。
デビュー時から話題沸騰、いま歴史時代作家業界で再注目の著者による本書が、ついに文庫化、発売即重版もかかりました! さらにシリーズ2作目となる『往来絵巻 貸本屋おせん』も5月14日に発売。2冊の刊行を記念して、おせんの魅力が詰まった第一話目「をりをり よみ耽り」を全文公開します。
第一話 をりをり よみ耽り
一
蝉の声と入れ替わるように、重羽こおろぎが鳴きはじめた。
やわらかい朝日をひたいに受けながら、せんは竪川の河岸にそってはや足で歩く。半刻も進めば武家屋敷は途切れ、眼の前には田畑が広がる。
すでに稲穂はふっくらと実り、かすかに垂れはじめていた。歩をはやめると穂先があとをついてこようと揺らぐ。
(ちょいと夜なべがすぎた。眠くてのどが渇くわ)
昨夜は遅くまで写本を作っていた。そのときの墨の匂いと、草木の根っこの匂いが交じり合って、背後から漂う。背負った貸本の高荷は、日が高くなるとずっしりと重くなる。
せんは指先の墨をなめた。
達筆とまではいわないが、本を書き写す筆の動きは早い。せっかちな性分のせいか、筆を動かせば爪の間に墨がこびりついてしまう。
「ん、誰だい?」
揺れる稲穂をあいてに道を行く。ふと、そこに誰かがいるような気がして足を止めた。穂はかわらず揺れている。
よく目を凝らしてみれば、畔のぬかるみに蛍が浮いていた。細い足がかすかに動いている。昨夜までこの辺りを照らしていたのだろうか。
「秋まで灯る蛍なんて、あまりいいものじゃないよ。暗い中でひとり光っていてもさびしいだけだろ」
ふっふっと息をととのえながら、せんは先を急いだ。
「まいどお、梅鉢屋でございます」
亀戸村の井田屋正兵衛は、せんの得意客のひとりだ。もともと江戸日本橋で足袋屋を営んでいたが、還暦を迎えて暖簾を息子にゆずり、自分は若い後家と隠居暮らしをしている。
「ご隠居どの、梅鉢屋のせんでございます」
木戸を開けて声をかけると、正兵衛は畑にしゃがみ、無心に雑草を抜いていた。からげた着物の裾は泥にまみれている。
「せんせい、貸本屋さんがきましたよ」
男の子が声をあげた。
畑を構えた質素な家屋には、いつも村の子どもたちが出入りしていて、今日も畑の奥では、九つ十ほどの年の子が、葱を引っこ抜いてその匂いを嗅いでいる。ふだんは素読やそろばんを学びにやってくるのだ。ちいさな村にできた手習い所のようなものである。
ただ、子どもらの目当ては勉学よりも、畑を手伝ってわずかばかりの銭をもらうことにあるようだ。
正兵衛は手のひらに付いた粘り気のある土をこそげながら、せんにむかってしわを寄せ笑った。
「今宵は葱鍋だ。おせんも食っていけよ。それに客人からボラをいただいてね。刺身にして一杯やろうとおもっていたのさ」
とたんに葱を手にした小僧が顔をほころばせた。
「そうしたいところだけど、うちの町木戸のじいさんが口うるさくて。きのう四ツ(午後十時)の鐘に間にあわなくて、さんざっぱら説教されてしまいました」
「そうかい。じゃあ早めにしこんでおくからよ。村をまわってきたら帰りに寄っていきな」
話を聞いているのか聞いていないのか。せんはため息をついて、「じゃあ、ご相伴になろうかな」とつぶやく。すると子のほうが嬉しそうに肩を揺らした。
「よっこいしょ」と高荷を縁におろし、風呂敷をほどいて二十冊ほどの貸本をずらりと並べた。客が好みそうな読物や軍記、浄瑠璃本など、数多く取りそろえている。
葱を抱えた子が、首をのばして縁をのぞく。
「これ茂吉、汚れた手で触るんじゃないよ」
正兵衛から厳しい声を受け、子は跳ねるように畑へ逃げていった。
「ねぎなべ、ねぎなべ、いろはにほへと」と口ずさみながら、雑草をぬき、たまにこちらをちらりと見てくるから、せんはあとでぼろぼろになって売りものにならない御伽草子でも置いていこうと思った。
正兵衛は手水鉢で泥を落とし、奥の部屋で着物を代えると、いそいそと縁に駆け寄ってきた。
「ほお、馬琴の『椿説弓張月』があるではないか。ム、先だって出された続篇がないぞ」
「江戸中の本屋や柳原通りの干店までさがし歩いたけど、人気が高くて手に入りません」
「梅鉢屋もまだまだだねえ」
曲亭馬琴は江戸では知らぬ者のない戯作者である。二年前に開板したこの歴史物語は、すでに前篇、後篇が出ている。市井の人気が高く、近ごろ続篇が出されたばかりだ。
正兵衛は前篇の表紙をめくり、挿絵の白縫姫を指でなぞった。
「うむ。しっかりとした彫だ。髪の毛の一本まで風でそよぐような細かさは、腕の良い彫師の仕事の証だな」
といって、ちらとせんを見やる。
「でも平治にはおとるかね」
平治は、せんの死んだ父の名だ。腕のいい彫師で、本好きの間では名の知れた男だった。
「南場屋に声だけはかけてあるけど、挿絵が北斎となるとね。ちょいと時がかかるかもしれませんよ」
「おお、あそこの主人は息災かね」
「近ごろはおとなしい本を開いているけど、ふいに悪い癖が出ちまうって笑ってました。たまに行事から差し構えをうけてますよ」
振り売りから身をたてた南場屋六根堂は、せんがもっとも信頼する地本問屋だ。もとは吉原に出入りしていた貸本屋で、彫師だった父とも交流のあったむかしなじみである。
「御公儀の怒りをかって、このような素晴らしい技を消すわけにはいかぬからのお。そのための商い方をよく知っている本屋だよ」
このご時世、書物問屋や地本問屋が、新しい板を開くことは難しい。先の寛政の改革以降続く出版統制は、いまだ厳しいものがある。
だが、御公儀の厳しい締めつけがあっても、版元は良い本を作るために知恵を絞り奔走する。安価な草双紙であっても、挿絵を有名絵師に頼むことは少なくはない。
常連客の舟屋の女衆などは、御禁制の艶絵や洒落本を拝みたいと、せんに耳打ちしてくる。手回しはできるが、見料が高くなると告げても、「いいよお。いろいろと飽きがきてさ」と、にやと笑うのだ。
たいていの読物はかなり高価で、日に銭百文ほど手元に残ればよいという生活を送る庶民には手の届かない代物である。
そこで重宝されるのが、「貸本屋」だ。江戸界隈だけでも、貸本屋の数は八百軒を超える。その裾に、せんの「梅鉢屋」がある。まだ振り歩いて五年。駆け出しだ。
『和漢貸本 梅鉢屋
職分道具ニテ 疵付給フハ僻事也
日延又貸尚見料申受候 浅草福井町三丁目せん』
梅鉢屋の蔵書には、全てに「梅せん」という墨印が押されている。
本は留まることなく客たちの手を渡り、手あかで汚れ破れていく。多くの人が物語を楽しんでいる証だ。
貸本屋は、異説・流言の取り締まりが厳しい窮屈な世になくてはならない、知識と娯楽の入り口となっていた。
「ふむ、馬琴では子らには難しいか。こちらの『西遊記』にしよう」
「この村の子は幸せですね。あたいも小さいころ、おとっつぁんにいろんな本を読んでもらいましたよ」
「この老いぼれの目が黒いうちに子らに本読みのたのしさを教えてやらんとな。面白おかしい読物は、奉行所の触れ書きひとつで、あっという間にこの世から消えちまうからさ」
まったくだ、とせんはうなずいた。同時に、みぞおちあたりがぎりぎりと痛む。
「じゃあ今日は、この『西遊記』四冊。『椿説』二冊と義太夫節の丸本……あと、豊国の役者絵なんぞ拝みたいものだねえ」
梅鉢屋は本だけではなく、錦絵も多く扱う。
正兵衛はじっくり時をかけて、役者絵を五枚選んだ。
せんは、空で算盤をはじく。
「ご隠居は十日限りだから、本が六冊で六百文。丸本は三十文。絵を合わせて八百文でございます。まいどありがとうございます。だけどこんなに散財して、ご内儀に叱られるんじゃありません?」
「ちかいうちに寺の坊主たちと呑むからね。その時の肴にするのさ」
しばらくしかめ面で役者絵を眺めていた正兵衛だが、つくづく見入り、ふと頬をゆるめた。
「そうじゃ! わしの知り合いに、阿呆のように書物を持つ男がおったわ」
「阿呆ですか」
「大筒屋という小料理屋の入り婿でな。もともと二本差しであったが、どういうわけか絵やら俳諧やらの会に出入りしているうちに通人ぶって『燕ノ舎』などと名乗るようになった男よ」
「もとお武家さんで……しかも、阿呆。かなり面倒くさそうですね」
「ちょいと扱いづらいやつだが、へたな書物屋よりも本をもっているはずだ。一度訪ねてみろ。本人がおるかどうかはわからんが、おかみは頼りになる女だ」
そういって、大筒屋への書付をすらすらと書いてよこした。
「燕の巣でよいものを見つけたら、何冊か持ってきておくれな。ついでに、今日の分、晦日払いで頼めるかねえ。このところ手元不如意であってなあ」
せんは目を細めて隠居をにらみつけた。
「お内儀さんはしっかりと手綱を握っているようで」
「ふん。面白おかしいことを金で我慢するのが体にはよくないのさ。わしが長生きできている秘訣だ。ただ、金がすべての世でもある。商売人の妻は、いくぶんか吝嗇であったほうがよい」
どこの家でも、女奉行の目は隠密同心よりも厳しいようである。
二
江戸の秋はゆったりと過ぎていく。雲が高くなり、道行く人の目さきも高くなる。表通りに並ぶ商家の影が長くなり、光の陰影が夏とはちがう姿を見せるから、通いなれた細い裏路地までも、迷い道になったように長く遠く感じた。
昼過ぎから広がっていた薄い雲は厚みを増していたが、ところどころ切れ目ができて、金色の光の柱が残り火のように町のあちこちにふり注いでいる。
「おう、おせん。今日は早い店じまいじゃねえか」
福井町の木戸番小屋の熊吉が、あくびをしながらせんにすきっ歯を見せて笑った。
「ひとっところでまとまった仕事ができたからね。それに、すこしでも遅くなると、おじさんがあることないこと、あちこちでいいふらすじゃないか」
城の方角から、暮れ六ツ(午後六時)の鐘が聞こえた。
熊吉は、せんが生まれる前からこの木戸番小屋に住みつき、荒物などを売りながら木戸の番をしている男である。気は良い親戚の親父という風体だが、とかく門限を守らなければ親のように説教をしてくるのだ。
先日も、たった四半刻(約三十分)遅れただけで、男ができたようだといいふらされた。
「いい年して嫁にもいけねえ娘がよくいうよお。おめえ二十四にもなるのに、まだまっ白な歯しやがって。死んだ平治も草葉のかげで泣いてるぜ」
「あたいよりも頭のいい男がいたら考えるよ。それより、このあたりで見かけないやつ通らなかったかい?」
「さあねえ。お天道さんの高いうちは寝ているからよ。なんでえ、厄介ごとかい」
「あたいを見初めたどこかの若旦那かな?」
にやと笑うと、熊吉はかた頬をあげて鼻で息を吐いた。
「本ばかり読むおなごなんぞ、だれが嫁にとおもうもんかね。ああ、死んだ平治に顔むけができねえよ。おめえのことは、娘同様に心配しているんだからな」
「わかった、わかった。おせっかいだね、熊さんは」
せんは両親を失ったあとも、みんなで暮らした福井町千太郎長屋に家を借りている。
長屋の入り口、頭上の横板には、『貸本梅鉢屋』の札が貼りつけられている。風雨にさらされ札は破れ、その下に貼られていた『板木屋平治』の札が見え隠れしていた。
うらぶれた長屋に入れば、とたんに井戸端の女たちのかしましい声が聞こえてきた。
ひょろりと細く上背のある若い男が、女たちに囲まれている。
「もっと尻をからげたほうがいいね」などとからかわれるのは、野菜の棒手振りで、せんのひとつ年下の幼馴染の登である。
登は幼いころは、この千太郎長屋に父親の時蔵と住んでいた。ある出来事がきっかけで家移りしていき、いまは大川端の浅草諏訪町で、父子で暮らしている。
時蔵は桶職人で、登も手習いを終えたら父の跡を継ぐことになっていた。しかし、長屋を移ってすぐに時蔵が病でたおれてしまった。母親はとうに亡くなっていたから、登が振り売りをしながら時蔵の世話をすることになったのである。
日銭のほとんどは、寝たきりの父親の薬代に消えているようだ。
「よお、おせん。いい茄子があるぜ。売れ残りだから三本二文にまけてやる」
登が色の濃い茄子を振りあげた。とたんに女たちの目がねばついた納豆のようになる。
「今日はいらないよ。亀戸で葱鍋を食べてきた」
「なんでえ。葱なら俺がわけてやるってえのに。おうおう、女がそんな重いもの持つんじゃねえよ」
せんが背負っている貸本をしょいなおしていると、登が駆けてきて、高荷をうしろからささえた。
女たちの笑い声に、せんは顔をふせる。生前の父からは、男が顔をふせるのは仕事をするとき。おなごがそうするのは嫁に行くときだけだと教えられた。
『あとは、お天道さんを見て暮らしていけばいい。それなら道にまようこともねえしなあ』
せんはもっぱら本を読むときに顔をふせる。たまに寝転がったまま読むこともあるけれど。父はそんなせんを見て、「おめえは、しかたねえなあ」と苦笑いをしていた。
ふつうに習い事をして、どこかよい商家へでも奉公に上がってほしいと願っていた母は、書物談義に夢中になる父娘を、苦虫を噛みつぶすような顔で見つめていた。
せんがぼんやりしているうちに、登は売れ残りの野菜をだきかかえ、ちゃっちゃとせんの部屋へむかって歩いていく。
おたねという恰幅の良い女が、背の幼子を揺らしながらくくっと笑った。
「あいかわらず、登はおせんひと筋だねえ。いいかげん一緒になってやったらどうだい。お似合いじゃないか。そうすりゃああんただって重たい本なんぞ背負うこともなくなるじゃないか」
「棒手振りの女房?」
せんは眉を寄せて手を振った。
「冗談じゃないよ。あたいはね、いつか表通りに南場屋のようなでかい店を構えるんだ。戯作者が本を書かせてくれって頭を下げてくるような、粋と張りを通す本屋にするんだよ。だから連れ合いになる男は、お奉行なんぞ洒落でいなすくらいの気概を持ったやつじゃないとだめなのさ。あんなしおれた菜っ葉みたいな男、願い下げだよ」
「とかなんとかいって。あんた、登が立ちよる日は、かならず早く仕事を切り上げるくせに」
一気に女たちが笑いだす。
ここの女たちは、男のことがからむと奉行所よりも面倒になる。
せんは顔を上げた。江戸を染める夕日が、ほんのすこし熱くなった頬を照らした。
井田屋の隠居から紹介された小料理屋に足を運んだのは、重陽の節句のころだった。
八丁堀にちかい常盤町の裏通りに「大筒屋」はあった。
酒処と書かれた提灯が軒下で揺れている。
せんが訪れたのは、得意先をまわったあとで、すでに西日が御城の方角から照らしていた。仕事終わりの男たちが呑みに立ち寄る刻限だが、暖簾をくぐると店の中はがらんどうで、白粉の厚い女中が、笊いっぱいの大豆をより分けながら、大きなあくびをしていた。
どうやらここは、ひとり身の女が気ままに寄れる場所ではないらしい。
訪いをつげると、その女中が笊から顔をあげ、じろとせんをにらみつけた。
「お連れさまをお待ちなら、奥へ案内しますよ」
「あたいは……貸本梅鉢屋のせんと申します。井田屋の大旦那さまの紹介で、こちらの本を拝見したくまいりました」
「ほん? あの、文字がつらつらと並んでいる本で? 酒や男じゃなくて、本?」
女中は目を大きく見ひらき、首をかしげながら、
「おかみさーん、おかしな客が来ましたよお」
と、奥に向かって声をあげた。
しばらくして還暦を過ぎたほどの女が顔を出した。目だけが異様に大きくて、魚のようにまばたきをしない女である。鬼婆とよばれていた近所の手習い所のお師匠さんにそっくりで、せんはあとずさりした。
背筋がすっと伸びている。小料理屋のおかみというより、呉服屋の内儀のようなたたずまいだ。
せんは、亀戸から預かった書付を手渡した。
「あれあれ、井田屋のご隠居さまじゃないか。最近顔を見せないから、どこかお躰でも悪くされたかと案じていたけど、後家さんをもらったのかい。昔からよくうちを贔屓にしていただきましてねえ。あれ、懐かしい」
「こちらにはたくさんの蔵書があるそうで。あの、ご主人は……」
「うちの兵六玉はここにいないよ」
おかみは唇をきゅっと結び、鼻で息を吐いた。
「絵師のまね事をしちゃあ、ふらふらしていた男でね。思い立つとなにも告げず、どこかへ行ってしまうのさ」
本名は藤吉郎というらしい。
「燕ノ舎どのは、いつごろお戻りになりますか?」
「さあねえ。ここ何年も姿を見ないから、どこかで女のホトでも描きながら野垂れ死んでんじゃないのかい」
「あら、江戸には戻っているんでしょ? 前の大黒天祭りで見かけたって、おかみさんいっていませんでした? ほら、甲子の縁日ですよお」
女中が床几に残されている煙草盆を片付けながらいう。
甲子は、六十年に一度めぐってくる最初の干支にあたり、縁起のよい年とされる。
せんも、その甲子の大黒天祭りに足を運んだ。五年前のことだ。不器用ながらも母の残した仕立ての内職を受けながら、ほそぼそと生計をたてていた。まだ貸本屋をする前で、長屋の差配人から、ひっきりなしに縁談を持ち掛けられていたころである。
甲子の縁日には、登に誘われて足を運んだ。いま思えば、あの誘いにいやいやながらついて行ったことが、せんの運命を大きく変えたといってよい。
その日は冬の名残の風が吹き荒れ、梅の花びらが乱れ飛んでいた。
いつもより登はよくしゃべった。このごろ贔屓にしてくれる料理屋ができ、商売が楽しくなってきたと得意気に話す登の姿に、せんはあせっていた。家事も不得手で、器量もそこそこ、日銭も満足いくほど稼げず、独りの夜が心細くて仕方ないころだった。
ふた親とひどい別れ方をした。唐突にありきたりな日々が失われると、悲しみ方すら思い出せなくなる。せんは十二歳で大人になることを受け入れ、娘心に蓋をして生きてきたのだ。
だが、登の眼に映るせんは、ずっとあどけない幼馴染のままなのだ。こうして登に強く手を握られると、このままずっと側にいてほしいと願ってしまう。
上野護国院にお参りした帰り道、柳原通りにならぶ干店をひやかして歩いた。髪飾りを並べる店で足を止めた登から、「簪、買ってやろうか」といわれた。登が野菜以外のものをくれるなど初めてのことだ。その耳は真っ赤になっていた。
ありがとう。
そう言いかけたときだった。
ひときわ強い風が吹き、隣の店に並んでいた古本の丁をいっせいにめくったのである。花びらは本に吸い込まれるように消えていく。
せんは年老いた店主を手伝い、ちらばった本を集めながら、そこで手にした一冊の本に目を止めた。
『源氏小鏡』
源氏物語の各巻の筋立てを、わかりやすく書いた古活字本だ。かなり年季の入った古本で、いまにも破れて粉になってしまいそうだった。
迷うことなく手銭をきってそれを買った。
長屋にもどると、平治が遺した行李から、灰色の塵紙をかき集めた。読本の真名(漢字)が読めなかったせんのために、平治はやさしいかな文字に書きかえ、この塵紙で本を作ってくれていたのだ。せんは昼夜をわすれて文字を書き写した。そして出来上がった書本の最後の丁に、戯作者や版元の署名をする。これを奥付というが、そこに並べるように自分の名を記した。
『和漢貸本 梅鉢屋』
それが、貸本屋せんの船出だった。
「たしかに縁日であのぼんくらを見かけはしたけど、声はかけなかったよ」
「なぜです? せっかく会ったのなら連れて帰ればよかったのに」
せんが首をひねると、女中たちが、「女を連れていたってことだろう」と苦々しげにいった。
「あの人の女好きは、絵を描くことと裏表なんだよ。絵を描くために女を抱いて、女を抱いたら筆を動かすのさ」
おかみに裏庭へ案内され、土蔵の重い扉をひらき中に入る。格子窓から差し込む月あかりが、棚に積まれた書物を照らしていた。
「すごい。これほどの数の本、どんな書肆にも並んでいないよ!」
圧倒されて入り口で立ちつくしていると、蝋燭を手にしたおかみが、先だって奥に足をふみ入れた。埃が舞いあがる。おかみは袂で口もとをおおい眉をひそめた。かびの匂いがせんの脇をすりぬけ、庭へ吹きだしていく。書物たちの気に押し潰されそうで、足の裏に力をいれた。
「ここにある大半のものは、藤吉郎が転がり込んできたときに持ってきたものでね。そのあとも増える増える。たまに井田屋の大旦那のような本好きが、蔵へ入り浸ることもあってね。ほとほと迷惑したものさ」
せんは、せり出すように積まれた書物のあいだを進み、奥に置かれた長机の前で足を止めた。
「あの人、ここでよく絵を描いていたよ」
机の上には巻紙が置かれ、硯には墨が固まったままになっている。描きかけの絵の横に汚れた筆が転がっていた。
燕ノ舎が姿をくらましたのは、十五、六年前。華美な美人画への締めつけが厳しかったころで、一枚絵や挿絵の下絵の注文が減り、ふさぎ込む日が多くなっていた。
「なにを考えているのかよくわからない男だったけど、たぶん、なんでもないような顔で戻ってきてこの続きを描くんじゃないかね」
ここのところ、客の口から燕ノ舎の名を聞くようになった。
「きっと里心でもついて、この辺りをうろついているんだろうよ」
井田屋の隠居の耳にもその噂が届いていたにちがいない。
「のこのこと戻って頭を下げてきても、一発ひっぱたいて追い出すけどね」
せんはおかみの愚痴にあいづちを打ちながら、机に目を落とした。
「白粉の香りが立ってきそうな絵。かなりの腕前だとおみうけしました」
完成することなく捨て置かれた絵は、見目美しい男女が重なりあう春画である。
「しばらくここで本を見せてもらってもいいですか?」
できたら写本をこしらえたいと頼む。
「そりゃあ構わないよ。ただ、ここに来るときは表から入らないでおくれ。あんたみたいな素人を使っているなんて、客に勘違いされたくないからさ」
ああかび臭い、とおかみは咳をしながら蔵を出ていった。
あらためて、せんは棚を見てまわった。床は埃だらけなのに、本は塵ひとつかぶっていない。
蔵におさまっているのは、読物や草双紙だけではない。役者を描いた彩色豊かな錦絵や、風景を模した浮絵、漆黒の石摺絵、巻紙になった絵半切などが無造作に積まれている。
燕ノ舎の手だろうか。武者絵の下描きを手にとった。
絵は読物になくてはならないものだ。何十丁も文字を追って本を読み尽くしたとしても、たった一枚の挿絵のほうが、物語を超えて読む者の心に焼きつくことがある。
書棚の本にはいくつもの付箋が挟まり垂れさがっている。とたんにせんの頬が熱くなった。何冊か手に取り、文机にむかう。
矢立を取り出し、墨壺に筆先を浸した。書物の文字を写すとき、せんはだれかの声を聞く。一文字ごとにささやいてくる。
それは本を作ることに携わった職人たちの、魂のかけらのようなものだろう。奉行所の沙汰ひとつで、絶板になってしまう時世である。だから板を持たない貸本屋は、本を読み継ぐために、一字も漏らすことなく書き写すのだ。
つぎの日から取り掛かったのは、『秋夜長物語』である。
南北朝時代に作られた、比叡山の僧・桂海と、稚児・梅若の悲しい恋物語。
寺院の狭い世界で繰り広げられる男色や稚児物語は、いまでは表立って描かれることがなくなった。
筆に墨を浸し、大きく息をはく。震える手がおさまるのを待ち、少しだけ黄みのかかった紙に墨を落とした。
三
いつものように朝餉を茶漬けですませ、この日まわる客から頼まれていた本を並べていると、どぶ板を踏みつける音が聞こえてきた。いきおいよく腰高障子が開く。神田の青物市場から野菜を仕入れたばかりの登が、血相を変えて飛びこんできたのである。
「朝っぱらからうるさいねえ。おたねさんとこの坊が目を覚ますじゃないか」
登に背をむけたまま、本と絵草紙を風呂敷に包んでいく。上がり框にのりあげた登が、「おい、おせん。おめえ、女郎屋に出入りしているってほんとか?」と、怒気を含んだ口ぶりで問いつめてくる。
(面倒くさいおとこだねえ)
読物の登場人物には、厄介ごとを持ちこむお侍やらお公家様がつきもので、たいていそういう男は、主役たちの恋路をふりまわすのがお約束だ。現の世では、昔馴染みの男が、その役まわりなのかもしれない。
「大筒屋っていやあ表むきは小料理屋だが、知る人ぞ知るあいまい屋だ。梅鉢屋のおせんが色を売っているって、方々で噂になってるぜ」
「だったらどうだっていうんだい」
「まぬけ。だったらすぐ俺のところに嫁に来やがれ」
「阿呆だねえ、あんたは」
せんは文机に鏡を据えて、ささっと髪をととのえる。
「だいたいねえ、男に体のあちこちを吸われるひまがあるなら、あたいは本を探し歩くよ」
鏡ごしに、登のふてくされた顔が見えた。座り込んだ登は大きく息をつき、出かけ支度をするせんを物言いたげに見つめている。せんは登の目から逃げるように立ちあがった。
登と男女のあいだがらになることは、兄妹がちちくりあうようなものでしっくりこない。
長屋の女房らのいうとおり、登と所帯を持てば、気の置けない仲であるからうまくやっていけるのはわかっている。わかってはいるが、物語と挿絵の場所がずれるような、ちぐはぐさを感じてしまうのだ。
一緒に過去を乗り越えることにとまどう理由はそれだけではない。登の中には、せんを「これ以上不しあわせにしてはならない」というくびきがある。登がそれを愛情だと勘ちがいしているからだ。
「ねえ、登。あんたのおとっつぁんが、いまでもあの時のことを悔いているのは知っているよ」
あの一件がきっかけで、平治は命を短くした。それは事実だ。けれど、時蔵だって倒れたまま骨みたいになっている。
「だからって、子のあんたが償うことなんてないんだよ」
「親のこたあかかわりねえよ。おせんはおせんだし、俺は俺だい。そんなことより噂のわけをきかせてくれ」
「大筒屋に珍しい本があるから、写本をこさえるために、世話になっているだけのことさ」
「それだけかい?」
「確かめたかったら銭もって店に行ってみればいい。娘さんたちは、みんな手練れらしいよ」
せんは登の肩を押しのけて土間に降りると、貸本を積んだ背負子をかついで部屋を出た。朝露に濡れた屋根瓦に朝日が降りそそぎ、起き抜けでまだ明るみに慣れないせんの目をくらませる。
「おい、話は済んでねえぞ!」
朝っぱらから湿った話をするのは好きじゃない。先を急ごうとするせんだったが、追ってきた登の手が、せんの肩をつかんで離さない。
振り返ると、目の前の光が消えた。登の厚ぼったい唇が、せんの口をすっぽりと包んでいる。
土の匂いがする。青菜の根っこの香りかもしれない。そして、あのたくさんの書物が置かれている大筒屋の蔵と同じ匂いでもある。つい手が登の背に伸びかけた。あそこにある多くの物語が、一気にせんの中にあふれかえり、頭の中なのか胸の中なのか腹の中なのか、どこだか分からないが熱く燃えあがりそうだった。
せんは、登のすねを思いきり蹴り上げた。つま先が痛くてうめいたのはせんのほうだ。
「なにすんだよお」
「こんどこんな下手な口吸いしやがったら、その振り売りの棒で、ケツに穴をあけてやる」
「ばかだなあ、ここにはさいしょっから穴あいてらあ。なあ、今日はどこをまわるんだ?」
「登の声がとどかないところだよ!」
せんは唇を袖で拭いながら、長屋を飛び出した。自分の中に、女の部分がしのんでいるようで恥ずかしくなった。
日本橋まで息をととのえながらゆっくり歩く。橋を渡るころにはいつもの調子に戻り、仕事にくり出す職人たちの忙しなさにつられて、せんの足もおのずと早くなった。
顔見知りの手代らにあいさつをしながら通町をつらぬく道をいくと、好奇の目をむけられているのを感じた。登の耳にまで入っているのなら、この辺りではもっと尾ひれがついて広まっているのだろう。
(腰でも振って歩いてやろうか)
南伝馬町を抜け、大筒屋がある常盤町にむかう道に折れた。
大筒屋の裏手にまわり、裏木戸から庭へ入る。煮炊きの匂いが店のある母屋から漂っているが、そのずっと奥の方に白粉と煙草の香りも交じっていた。
ちょうど厠へ出てきたおかみと目が合った。きゅっと閉じた口元を緩めることはない。
「おはようございます。今日も写させてもらいます」
「飽きもせずよく続くもんだ。これだから本狂いの性分はねえ」
せんは頭を下げて、蔵へ入った。
下町のざわつきから切りはなされ、大きく息をつく。
高窓の庇に雨だれが見える。すうっと一本の線を描いたようで、じっと見つめていると、秋の少し硬い雨粒ひとつひとつまでが、雫となって見えてきそうだ。
せんは深く息をはいた。
このひと月ほど、仕事の合間をみつけては、大筒屋に通いつづけ、ようやく『秋夜長物語』の文を書き終えた。
貸本屋が扱う写本は、客が読みやすいよう大文字でこしらえることが多い。口絵や挿絵を入れることもない。たいていの客はそれで満足する。だが、梅鉢屋の客にはかな文字しか読めない町人が多い。物語を彩る絵があればもっと楽しめるのだ。
欲をいえば、ここに美しい挿絵がほしい。話はさらにふくよかに彩られるだろう。
せんには絵の心得がない。花を描いたのにヒョットコだと登に笑われたことがある。
ふいに、仕あがったばかりの本がはらはらとめくれた。開け放たれた扉から風が吹きこんでくる。せんは身を固めた。鬢の油が饐えたようなにおいが強くなってくる。
背後から男がぬっと顔をよせてきて、「ほほほお」とすっとんきょうな声をあげた。
「稚児物語かい。ずいぶんと酔狂なものに手を出しているじゃねえか」
慌てて写本を胸に押しこむ。腕がすいと伸びてきて素早く抜き取られた。
「あ、あんた、誰だい」
せんの袷ははだけたままで、男はそんなせんの胸を見てくくと笑った。
「墨がうつっちまったよ」
男は笑いながら指に唾をつけ、せんの二つのふくらみの間をぐいと拭った。
「店の女じゃねえな。こんな貧相な身体じゃあ、山の神が笑っちまうよ」
せんは袷をぐいとつかみ、肩ごしに鬢の白い老人を見あげた。
「燕ノ舎どの?」
十何年も姿を消していた男なのに、ちょいと散策にでも出かけていたかのようないで立ちだ。雨が降っているというのに、下駄も履かず草履のままだし、着物の丈もつんつるてん。絵師ならばもっと粋であろうに、まるで田舎侍が茶屋の女を物色するような野暮ったさがにじみ出ている。燕というより、山郷からおりてきた烏のようだ。
鉤鼻から漏れる息は、ぬか漬けのような臭いがする。眉をひそめるせんに、燕ノ舎はニタリと笑った。
「ひさしぶりに家に戻ったら、蔵で本を写している女がいるっていうじゃねえか。女房が敷居をまたがせるなんて、とんでもねえ別嬪かと思って見にくりゃあ、なんとも艶の薄いおなごでがっかりだわ」
「紅をさした女が、こんな蔵にいると思うあんたがおかしいんだよ」
「そりゃあ、そうだあ。おめえ、名は?」
「福井町のせん」
燕ノ舎は文机の横に積んでいる高荷から、本を一冊抜きとり、最後の丁をめくった。
「梅鉢屋かい。聞いたことねえなあ」
どこにできた本屋だ、と首をひねる。
「あたいの店だよ」
「女の貸本屋かい」
そしてせんから奪い取った写本に目を移し、「女にしては、色気のねえ文字だな」と笑った。
「この白いまんまのところに絵をいれてえんだな。そうだろ?」
濡れ場である。比叡山の僧・桂海律師が、三井寺の桜の下にいた美しい稚児・梅若に心を奪われ、のちに心をかよわせて枕を共にする。梅若は稚児と記されているが、十六歳のうるわしい若者だ。絵にすれば、読者はぐっと引きこまれるにちがいない。
「心当たりのある絵師は、みんなしり込みする」
「あたりめえだ。てめえの首はおしいからなあ」
商売仲間に会うたびに、挿絵を入れてくれる絵師はいないかとたずねてみたが、金にもならぬ仕事である。しかも、元の本が奉行所から咎めを受けかねないものとなれば、仕事をうけてくれる酔狂な絵師はいない。下手をすれば、父の事件の二の舞になる。
「おめえさん、禁書やワ印もあつかっているのかい」
「……あんたが狗じゃないって証拠はあるの?」
「わしが奉行所の手下? こんな老いぼれがかい」
「そうとはわからないようにあたいらを見張るのが、狗のやり方だ。うまく町にまぎれている。信じていた客に裏切られた貸本屋を幾人も見てきた」
梅鉢屋の禁書扱いの本は、一見しても普通の読本にしか見えないよう、表紙を二重にしていたり、部屋の床下に作った穴蔵に隠したりしている。
どこに隠密同心の手先が潜り込んでいるかわからないからだ。
「だけど、あんたは確かに画工だ。指にタコができているからね」
昔、平治の仕事仲間の絵師にも、同じような肉刺がたくさんできていた。
それに、この男の体は驚くほど細い。まるで枯れ枝のようで、立っているのもやっとである。捕り物などできようはずがない。
「そういやあ、こっちに面白いものがあったんだが、まだあるかねえ」
燕ノ舎はひょろりと立ちあがると、埃に咳きこみながら、書棚や木箱を検めはじめた。「ちげえなあ」とか「くそ、かびてやがる」と悪態をつき、宝でも探す子のように首を伸ばしている。
「なあ、おめえさん、好きな本はあるかい?」
「……『源氏物語』」
「ククク、女はみんな好きさあな」
長屋にもどると、家の三和土にかごが置かれていた。里芋が山ほど入っている。
大きなふっくりとした芋は、せんの好物だ。ここ何日か、こうして登が野菜を置いていく。
「付文とか花とか、色気のあることはできないもんかねえ。声はわるくないけど、ほかはまるごと粋じゃないんだよねえ」
帰ったらすぐ竈の火口から種火を探して、付木に移す。行灯に火を入れると、真っ暗な部屋に積みかさねた書物が浮かびあがった。
火鉢を熾こして湯を沸かすと、冷や飯にかける。大筒屋から戻るとき、売れ残ったという茄子の漬物をもらったので、それも一緒にかっこんだ。
貸本業はたいそう腹がへる稼業だが、写本をするのも相当力を使う。帰ってくるとへとへとだ。
それでもせんは本を開く。おたねや木戸番の熊吉にいわせると、さっさと寝て油代を節約しろということになる。だが、せんにとっては孤独とは無縁でいられる大切な時間なのだ。
父の平治は、読物の挿絵や、錦絵の版板を彫る職人だった。
父の彫る女の後れ毛は、絹糸よりも細いと評判で、板木屋の中でも随一の腕を持つ彫師だった。読み書きが楽しくなってきたころ、平治が彫っている板をせんは横からじっとながめ、話の筋を聞いたものである。
あるとき、平治がいつもより緊張した面もちで彫刻刀を動かしていた仕事がある。
小さな版元から刊行される予定の武者物で、平治の手がめずらしく震えていたのを、幼いせんはよく覚えている。
その後、版元で試し摺りが行われた。平治は一番摺と呼ばれる薄摺りの本を持ちかえり、こっそりせんに見せてくれたのである。せんには読めない文字ばかりだったが、挿絵を見るのがなによりも楽しい遊びだった。
「この本の絵師さんの奥付、面白い形をしているね。なんの絵かしら。文字が書けないお人なのかな」
ふふ、と平治は笑みを浮かべ、じっと絵を見つめた。
「いいかい、挿絵はただ物語に沿って華やかにするだけが役目じゃねえのよ。絵師は戯作者の意趣を汲んで絵を描くのさ」
「じゃあ、ちゃんと文字が読める絵師なのね」
「あたりきよ。いっとう頭のいいやつが絵師になる。なんてったって、目の前にあるもんを、ながめただけで、本物よりすごいもんにしちまうんだからな。そしてわしら彫師は、それをたがうことなく忠実に削っていく。こうしてはじめてどんな筋書きなのかあきらかになっていくのさ」
「この本は絵を見ないとわからないの?」
ああ、と平治はうなずいた。
「この『倡門外妓譚』はな。せん、この武者が刀をむける先に吉原の大門があるだろう。ここからなにがわかる?」
幼いせんは、一生懸命考えた。しばらくして、お腹がぐうと鳴ってひらめいた。
「このお侍さんは、美味しいものが食べたいの。吉原ってとこは、すっごくきれいな女の人がいて、あたいたちが見たこともないものが食べられるって、登がいってた」
謎解きする娘の顔を、平治は目を細めながめていた。
「なるほどなあ。それも間違いじゃねえだろうな」
答えはほかにあるようだった。
「よく目を澄ませりゃあ、この武者がなにを考えているのかわかるのさ。本当なら、吉原の周りには田んぼしかねえ。殺風景なものさ。だけど、この絵の大門には右に竹と雀、左にはそれを狙う鷹のすがた。こんな場所はひとっところしかねえ」
「どこ?」
「そりゃあ、いえねえな。彫っているさなかに、このタクラミに気がついても、口にしちゃなんねえのよ。彫師は版下絵通りに彫るのが仕事だ」
「おとっつぁんのいじわる。教えてくれたっていいじゃない」
「ないしょの、ないしょ」
この数日あと、平治は命を削られた。文字通り「削られた」のだ。
せんと登が手習い所から帰ってくると、福井町で騒ぎが起こっていた。狭い路地に大人たちがひしめきあっている。家から飛び出してきた母に強く抱きよせられ、むかいの部屋の壁ぎわに引きずられていった。
「せん、なにも見ちゃいけない!」
母が声を絞り出す。定廻り同心や岡っ引きたちが、作業場でもあるせんたちの家に押し入る。そして、平治と板木すべてを表に放り投げたのである。
板木屋平治が彫った『倡門外妓譚』なる読物が、御公儀を愚弄する筋書だと同心が叫んでいた。
桶屋の職人や、普請場の大工が集められ、鉋で板を削れと命じられた。
その中に登の父、時蔵の姿もあった。
泣きさけぶ平治の声が町に響く。板は彫師のすべてだ。
平治は同心らに押さえつけられ、指を折られた。野次馬たちが悲鳴をあげた。平治を助けてくれる大人はいない。
「おっとう、やめておくれよ!」
登が時蔵にしがみついたが、中間がひきはがして投げ飛ばした。
騒動のあいだ、母はせんを強く抱きしめて、「もうだめだよ」とくり返し、小さく小さくなっていた。なにも見ない、なにも知らない、そういいきかせるように、震えながら娘を抱いていた。
その間、せんはいままで平治と読んできた本のことを考えていた。だけど、浮かんでくるのは、父が彫り、摺師が仕上げた美しい挿絵の数々で、板が目の前で削がれていくにつれ、せんの頭の中までもが削られてしまうようで気分が悪くなった。
家に積まれていた多くの本や、仕事道具の鑿や小刀が、竈で焼かれた。
平治は、今生彫りにたずさわることを禁じられたのだ。
後日、禁書の版元と戯作者、挿絵師が姿をくらましたと町名主から知らされた。
母はかすかな音にも身をこわばらせるようになり、夜の拍子木にすら耳を閉じ震えていた。それからしばらくして、母はどこかの男と姿を消したのである。
女房に愛想をつかされ、彫り以外の職につくことを拒み、酒におぼれた平治は、せんが十二歳の秋に、再び鑿を握ることなく大川に身を投げ自死してしまった。
父が慰みごとにはまっていたことを知ったのはそのあとだ。長屋の女たちが立ち話をしていたのだ。金のために実入りのよい仕事を受ける平治に、逃げた母はよい顔をしていなかったが、とうとう家族を巻き込んでしまった。大人たちは、平治の自業自得だと口にしていたが、せんは違うと思っていた。
(いくらおとっつぁんが手慰みにこっていたとしても、それと板木削ぎ落しは別のはなしだ)
でもそれを声高に訴えることはできなかった。せんはまだ十二歳であり、世の道理がおかしいといって、では自分がどうしたらいいのか、皆目見当がつかなかったからである。
最後の茄子漬をかみ砕いて飲みこむ。すこし塩っ辛いが、疲れた体にはちょうどよかった。
四
通油町の南場屋六根堂は、せんが足しげく通う地本問屋である。
平治は、ここから開板する書物の彫りを多く請け負っていた。だからせんもひんぱんに店に出入りしており、朝から晩まで草双紙や錦絵をながめて過ごしたものである。亀戸の隠居を紹介してくれたのは、ここの主、喜一郎だった。
「親父さん、馬琴先生の続篇、扱っていないかい?」
訪いをつげて、ちょうど店先で接客を終えた喜一郎に声をかける。恰幅のよい主人がからからと笑って手を振った。
「はいった、はいった。一冊だけ運よく手にはいったよ。おせんが来ると思って、誰にもみせておらぬ。そのかわり、値は張るよ」
「待っている客が多いんだよ。いくら?」
帳場格子に戻った喜一郎が算盤をはじく。
「相場の倍じゃないか! 足元みないでおくれよ」
「大丈夫だよ。馬琴の読物に、北斎の挿絵だ。ここで手に入れておかなければもう二度とお目にはかかれないかもしれないよ。それとも、写本にするかい?」
葛飾北斎の絵がなければ意味がない。
せんは袂から巾着を取り出すと、あり金をすべて喜一郎の膝もとに差しだした。
「すぐに元は取れるさ。なんならなじみ客、引き合わせてやろう。ただとはいかんがね」
銭をあらためた南場屋は、「そういやあ」と声を落とした。店で本を綴っている手代たちに聞こえないよう、せんに顔を近づける。
「さいきん奉行所に目をつけられてないかい? この辺りを縄張にしている岡っ引きの親分が、おまえさんのことをたずねていったよ」
「さあ。身に覚えがありすぎてわからない」
「中本(滑稽本)くらいなら、お上だって目くじら立てることはない。だが絶対に手をだしてはならん書もある。それだけは気をつけなさい」
「わかっているよ。一線は越えないこと」
ぎりぎりのところを見極めて商いをしなくては、客にも、多くの本に関わる職人たちにもとばっちりがかかってしまう。
「わかっておればいい。お前さんは戯作者じゃない。あくまで、本と読み手を繋ぐお仲人なのさ。それを忘れちゃあいけないよ」
「わかっている」
真一文字にした唇を、いくどか開こうとした喜一郎だが、せんの顔をみてふっと表情を和らげた。
「また探し物があったらおいで。彫りと摺りのいいやつを用意しておくよ。とはいえ、『後れ毛平治』のような職人は少なくなってしまったけどね」
「その名を口にしたら、親父さんが手鎖にあっちまうよ」
「馬鹿もん。平治は、わしがいっとう惚れこんだ板木屋だ。後ろめたいことなんてこれっぽっちもない」
平治が金に困っていなければ、あんな危ない仕事はしなかった。もっとはやく賭けごとから足を洗わせて、自分が実のいい仕事を回せていれば、と喜一郎は悔いている。
「親父さん、そんなに優しいなら、この本、すこしまけておくれ」
「そりゃあ、別のはなしでございましてねえ」
喜一郎はたるんだ頬を揺らしながら、満面の笑みを浮かべてみせた。
店を出ると、表通りは砂をふくんだ風が吹き荒れていた。
(貸本屋は裏道をいく商売だ。筆禍が怖くて御公儀と喧嘩できるかっていうんだ)
帯に巻き付けている一冊の本にそっと手をあて、足音を押し殺すように歩いていく。かすかに葉擦れのような忍ぶ音もかさなっていたが、せんはそれに気づかなかった。
あいかわらず絵師のめどはつかない。
あきらめて、二冊目の本にとりかかろうか迷いはじめたころから、蔵に燕ノ舎が姿を見せるようになった。はじめて会ったときより身なりの良い着流し姿である。みすずの怒りがとけたのかわからないが、また入り婿の顔をして母屋に居着いているようだった。
足音もたてず蔵の中を歩きまわり、ヒューヒューと息をもらすように本や絵をながめていく。
「燕ノ舎、絵は描かないの?」
あるときせんがたずねると、燕ノ舎は「んん?」と目をしばたたかせた。
「もったいないよ。これなんか色をつけりゃあ欲しがる好事家が多いだろうに」
描きかけの絵をかかげてみせると、燕ノ舎ははじめてそれを見るように首をかしげるだけだ。自分が絵描きだということすら忘れているようだった。
ある日、いくつかの本に目を通して蔵から出ると、おかみのみすずが、母屋の縁に片膝をついて、庭の柿の木を見あげていた。声をかける間もなくおかみがせんに気づき、珍しく皴のよった手を挙げてよこした。
「ちょいと、つきあっておくれ」
咎められると思った。愛想つかしているとはいえ、亭主が若い女の籠る蔵に出入りしているなど、心中おだやかでいられるわけがない。
だが、みすずは火鉢の上で温めた土瓶を手に取り、ふたりの間に並べた湯呑みにとくとくと酒を注いだ。
「いける口だろ」
「店を空けていいの?」
「藤吉郎がなじみ客を集めてどんちゃん騒ぎさ。うるさくてしかたない」
大筒屋の二階からは、女中たちの甲高い笑い声と、煙草の匂い。そして軽妙な三味線と唄が聞こえてくる。
みすずのすすむ酒をながめながら、せんも口をつけた。ふくよかな匂いが鼻に抜ける。
「下り酒だよ。ここのところ、めったに手に入らないけどね」
「燕ノ舎の土産かい」
「こんなもんでほだされやしないが、酒に罪はないからね。この世は贅沢するなって風潮だけれどさ、酒くらいはいつまでもうまいものを口にしたいもんだよ。けったいな世だと思わないかい? 面白おかしいものがけしからんだなんてさ。せめて生きる楽しみのようなものだけは、なくしたくないもんだ」
「蔵の本を処分しなかったのは、そういうことなんだね」
「ん?」
「いつ戻ってこられるかわからない亭主のものを、何年も埃はらいしておくなんて、あたいにゃできないと思ってさ」
蔵の書物はかび臭く、鼠にかじられたものもあるが、埃はほとんどかかっていない。
「酒と同じさ。本には罪はないだろ」
「燕ノ舎はなぜ江戸を離れていたんだい?」
諸国を放浪していたというのに、燕ノ舎は一枚絵ひとつ完成させていない。躰もかなり悪くしている。道楽で物見遊山にくり出していたわけではないだろう。
「昔は厄介な絵ばかり描いていたからねえ。町方に目をつけられてさっさと逃げ出したのさ」
「おかみさんに迷惑をかけたくなくて家を出たんだね」
「そんな気の利いた男じゃないよ」
みすずは低く笑った。
「おせん、そろそろここに通うのはやめたほうがいい。藤吉郎が帰ってきたのなら、きっと町方の手先が張り付いているはずだ。とばっちり食わせるわけにはいかないよ」
厳しい口調だが、そこにはみすずの気遣いが含まれている。
ふっと眦を下げたみすずが、庭の生垣のあたりに顔をむけた。
「もう、蛍は飛んでいないねえ。たまに生き残ったやつが御堀から流れてきてね、この庭に紛れ込んでくるんだよ」
「……秋の蛍は縁起が悪いよ」
「そうなのかい?」
「光がよわよわしいから、病蛍っていうでしょ」
あえかに灯る光は、せんを不安にさせる。
「昔、あたいのおとっつぁんが、大川に身をなげて死んだんだ。そのときに、季節外れの蛍がおとっつぁんのまわりにとんでいた。あたいにはおとっつぁんの無念がこの世に悔いをのこして漂っているようにみえた」
するとみすずが、酒の中に声を落とすように口をひらいた。
「なく声も 聞こえぬ虫の 思ひだに 人の消つには きゆるものかは」
光源氏の娘玉鬘に思いを寄せた兵部卿の宮が、蛍の灯りに照らされた想い人を目にして詠んだ歌だ。
「この歌を書いてよこした男がいてね」
「燕ノ舎?」
まさか、とみすずは大きく手を振った。
「どんな顔か忘れちまうくらいの男だよ。だけど、胸ン中がざわっとした妙な浮かれ具合とか、熱くたぎっちまった灯りみたいなものは、そう簡単に忘れられないもんでね」
「蛍はすぐに死んじまうのに、光だけが胸んとこに残るなんて、苦しいだけじゃないか」
「親父さんのまわりで飛んでいた蛍は、たしかに無念の想いだったのかもしれないね。ひどい目にあって辛抱ならなくなったとはいえ、ちいさな娘を置いていくんだ。心配でたまらなかったろうよ」
みすずは、出入りする客からせんの生い立ちを耳にしたことがあるのかもしれない。
二階の連子窓のすき間から、にぎやかな酒盛りの声が響いてきた。せんには燕ノ舎の声を聞きとることはできなかったが、みすずは時おり口元を緩めたり、ぎゅっと閉じたりする。
目も、鼻も、肌を撫でる誰かの手の温かさも、最期は感じなくなるかもしれないが、愛おしい人の声だけは、どれほど小さくなっても届くものなのかもしれない。
しばらく秋の蛍をふたりで探しながら、酒を重ねた。酔いがまわりはじめたころ、みすずが首をかしげていった。
「でも解せないねえ。あんたの親父さんは、どうしてそんなにひどい仕打ちにあったのか。一介の彫師ならさほどの罪にはならなかっただろうに」
たしかに、一番にお縄になるのは版元だったはず。だが、版元はすでに江戸から姿をくらましていたという。
「奉行所は、おとっつぁんのことを、どこから知ったんだろう」
板を彫るとき、彫師は己の屋号を刻むこともある。だが、平治はどんなに大きな仕事でも、職人がでしゃばるのは好かないと、銘を入れなかったはずだ。
「だれかが親父さんを密告したんだろうね」
密告。
ありえない話ではない。いまも多くの戯作者や版元が、奉行所から厳しい統制をうけている。
(狗はちかくにいる)
福井町へ帰る道は月もなく真っ暗で、大筒屋から借りた提灯が秋の風に揺れて心もとない。
神田川に近づくころ、せんはふと足を止めた。同時に背後から聞こえていた砂を蹴る音が一緒に消える。小伝馬町あたりから感じた気配は、新シ橋を渡ったころにはなくなっていた。
武家屋敷の前を通り、足を早めて長屋へ急ぐ。
福井町の木戸が見えてくると、ようやく肩の力が抜けた。まだ木戸は開いている。
「おじさん、起きているかい?」
小屋の戸を開けると、土間に売り物の手ぬぐいや草履などが積まれ、奥の四畳半に布団が敷かれたままになっている。
壁にかけている拍子木がない。夜回りに出ているのだ。
誰もいない木戸をくぐって福井町にはいると、灯りは少なくなり、せんの提灯だけがぼんやりと路地を照らした。
ところどころに、ぽつぽつと火影が灯っている。夜なべしている家からは、夫婦の話し声や内職で木槌をたたく音、夜泣きの赤子をあやす声がもれている。
千太郎長屋に入り、提灯の火を消そうと足を止めたとき、せんの家の前に男が立っているのが見えた。
「登かい?」
提灯を掲げて声をかける。男が顔をあげた。ほっかむりをしている。腰高障子に指がかかっていた。
「だっ……!」
声がのどの奥に詰まって出てこない。手から提灯が落ちた。火が紙に燃えうつる。
振り返った男の手に、匕首が握られていた。
押し込みだ。燃える火に照らされた刃が、蛇のようにめらめらとうごめいている。
男は無言のまま、せんにむかって突進してきた。
その動きは驚くほど敏捷で、せんが声をあげて助けを呼ぶ間もなく、刃がひらめき、せんの袂を切り裂いた。巾着袋にいれていた銭がどぶ板にはね、男が一瞬動きを止める。せんは這いながらむかいの障子戸に背を当てた。燃え尽きる提灯の火が男の姿を浮きあがらせるが、顔ははっきりしない。
男の手がせんの首に伸びてきた。のどのいちばん柔らかい場所を狙い定めて指がくいこんでいく。せんは男の腕をひきはがそうともがいたが、首はさらに絞まった。鼻からも口からも水が垂れ流れている。
闇のなかにぼんやりと蛍が光る。その光はだんだん強くなった。焼ける提灯の火に照らされた男の口元は、すきっ歯だ。
長屋の奥の家から指物師が顔をだした。厠へ行きかけたが、路地にあがる火にぎょっとして立ちすくんでいる。匕首を振りあげる男に気づき、「なにやってんでえ!」と、大声をあげた。
首を絞めつけている指の力がゆるんだすきに、せんは足裏で男の下腹を蹴りあげた。男は匕首を落とし舌を打つ。拾おうと手を伸ばした男だったが、騒ぎで起き出してきた住人たちの気配に気づき、路地を走って逃げていった。
指物師がせんに駆けより、「だれか、番屋へ走っておくれ!」とさけびながら、切れた袂をみて顔をしかめた。
「面はみたのかい?」
せんは震えながら首を振った。
騒ぎに気付いて表に出てきたおたねが、悲鳴をあげながら燃えさしの提灯に砂をかける。おそるおそるせんの家の中をのぞいて、ふうと息をはいた。
「部屋は荒らされていない。ちょっとでもおせんが早くもどっていたら、中で出くわして大事になっていたよ」
その夜、せんはしっかりと戸に心張棒をかって、部屋の隅に座ったまま夜を明かした。躰の震えがおさまらず眠れなかったのだが、ある音が耳から離れなかったのだ。
押し込みは、逃げるとき、「カラン、カラン」と腰から音を立てていた。幼いころから聞きつづけていた、夜の拍子木の音と同じだった。
五
大筒屋の軒下にしゃがむせんを見つけるなり、燕ノ舎にみるみる喜色が浮かんだ。酒と煙草の匂いが近づいてくる。
「ホホ、寄るべのないおなごが捨てられておる」
「燕ノ舎こそ、朝帰りなんぞして、おかみさんに追い出されるよ」
「へへ、亀戸でうまい汁粉のつくりかたを教わってきたのさ。うちの女房はあんこが好きなんだよ」
手には小豆をつめた袋と、荒縄にくくられた葱を下げている。
燕ノ舎はさっさと店に入ると、奥の台所の焚口にむかってしゃがみこみ吹き竹を吹きはじめた。おかみは起きてきておらず、通いの女中や包丁人も来ていない。しんとした店の台所に火がはぜる音だけが響いた。
「お、きのうのうどんが残っておる」
大きな釜の蓋をあけてのぞきこむと、せんを手まねきした。
「葱をきざんで味噌といっしょにすり鉢で擂ってくれ」
「あたいが?」
「腹へってんだ。ちゃっちゃとうごけ」
せんは高荷を床几において、袖をたすき掛けして台所へ入る。水棚からすり鉢をとりだして、とまどいながら葱を刻んだ。
「危なっかしい手つきだ。嫁には行けそうにねえな」
せんの包丁運びを横目でみながら、燕ノ舎がため息をついた。せんが練った味噌あえを、うどんのなかに入れて溶くと、葱の香ばしいにおいが立ちあがる。
みすずが起き出してくるころには、くたくたに煮えたうどんが朝餉に用意されていた。
三人で、飯台に並びうどんをすすった。
「けったいな味だねえ」
汁をひと口啜ったみすずが、口をゆがめた。
「亀戸の葱だ。味噌は仙台。辛みがあうねえ」
「料理は絵具のようになんでもかんでもまぜりゃあいいってもんじゃないんだよ。こういうのは素材が大事なんだ」
みすずが難くせをつけると、燕ノ舎は「いひひ」とおかしな笑い方で肩をゆらした。
「そういやあ、なんでおせんが朝っぱらからここにいるんだい。まさかおまえさん、こんな素人娘のとこにころがりこんでいたのかい」
険のある目つきに、せんは慌てて首を振った。
それどころか、昨夜はさんざんな目に遭ったのだ。うどんを飲みこむとき、まだのどが痛む。
「本好きには食い意地の張った奴が多くてな。ひさしぶりに馴染みに顔を出せば、なんだかんだと食わせられる。むかしは連れ立って、あちらこちらへ食べ歩きをしたもんだ。物書きもおなじさ。きっと、あいつらはうまいもんを食いたくて、筆をうごかしているんだろうなあ。源蔵(唐来参和)辺りはきっとそうだ」
「なんだか気が晴れないときは、甘いものを食べりゃあいいのさ。たいていのことは美味いってひとことでどうにかなる」
みすずのことばに、せんは大きくうなずいた。
「しかしよお、あいかわらず、おめえのうどんは餅みたいだなあ。口の中がくっついちまうよ」
燕ノ舎が文句をいうと、みすずが「のどに詰まらせて、ちゃっちゃと死んじまいな」といって笑う。
ずずずっと、三人のうどんを啜る音が聞こえている。せんはほんの少し体にまとわりついていたこわばりがなくなる気がした。
夜来の雨は午をすぎたころに細くなりはじめていた。
せんが下駄をならして大筒屋に駆けこみ、蔵の戸前で笠をはずしていると、雲の端にぼやけた光がさすのが見える。
今日が最後になるだろうと蔵に入ると、明かり取りの窓の下で燕ノ舎が寝ころがって軍記を読んでいた。
「しけた面してるじゃねえか。おめえさんを襲った賊は捕まったかい?」
「知ってたのかい」
せんが襲われ四、五日経ったころ、木戸番の熊吉が姿を消した。町名主によると、躰を悪くして番太郎を続けられなくなったという。熊吉が、押し込みの悪党だったと考え至る住人はいなかった。
真実を知る者は、この先きっと現れない。それが狗の役目だ。
熊吉がいなくなった木戸を見るたび、小さな物音に震えていた母の白い顔や、生きる気力を失った父の背中を思いだす。
本を背負って歩く裏道の先に、光はあるのだろうか。
「なあ、写本の挿絵、この燕が描いてやろうか」
そういった燕ノ舎は、文机に座ったせんに後ろから被さると、左手と両足でがっちりと挟みこんだ。
「女を抱かなきゃ、描かないんだろ?」
身をよじろうとしたが、老絵師は閂のようにせんを捕らえて離さない。そのまま机の天板に押し倒された。燕ノ舎が指をなめる。生娘というわけではない。だが、好きでもない男に抱かれるほど枯れてはいない。
筆を持つ右手に重ねられた燕ノ舎のそれをみて、せんははっと息をのんだ。指が梅の枝のように歪んでいる。
「へへ、竈にくべたらよく焼けそうだろ?」
「……死病かい?」
「腹やら背やら、あちこちに悪いできものができちまった」
「治らないの? 医者には?」
「もう好きなだけ酒を呑んでいいってよ。腹の中から清めてくれってさ」
細い骨の浮き出たのど仏が、つまった笑い声とともに上下する。
「誰しもいつか死ぬものさ。わしはなあ、この世は本の世でいえば一丁にもみたねえ現の夢だと思っているのさ。咎をうけることや病なんぞで、あれこれ悩んだところでせんないことでなあ。次の丁には、これまでとはまた違う世が待っているだけだ」
だけどいけねえな。
燕ノ舎はちいさくつぶやき、舌で唇をなめた。
「やっぱり、まだ生き足りねえ。時が憎たらしいよ。指の骨なんぞぼろぼろでさ。獅子一頭も描けやしねえ。まだ芝居終わりの撃柝の音なんぞ聞きたくねえよ。なあ、おめえ、わしの手になれ。そして、言うとおりに筆を動かせ。ふたつとない濡れ場を描かせてやるよ」
背後から覆いかぶさってきた燕ノ舎は、筆ごとせんの手の甲を支えた。
「あたいに絵の勘はないよ」
「大丈夫さ。てめえが抱かれている姿を、天からのぞくのさ。戯作者みてえによ。そしてどうすりゃあ、てめえが気持ちよくなるか考えるんだよ。いっぱしの濡れ場になる」
筆の先が、静かに余白におちた。
僧侶桂海の瓜実顔が、じっとせんを見つめ返している。せんは僧の体から逃げようとするが、心はすでに彼のなかに留まろうとしていた。
はだけた裾に僧の手が忍びこむ。もう欲を抑えきれずせんは僧の一部となる。境目がわからないのに、荒々しい僧の指の動きで自分の体の際を知るのだ。
「これがおめえの欲っする男かい。ずいぶんと優男じゃねえか」
桂海の腕が、梅若の体に蛇のように絡みついている。ふたりのマラは赤く膨れそそり立ち、いまにも互いの腹を突き破ろうとする。
艶絵は「笑い絵」と呼ばれ、ともすれば滑稽になりがちだ。絡み合うふたりの男女、もしくは男同士が欲におぼれ、たがいを求めあう姿は、他人の目にはおぞましい光景ですらある。しかし、腕のある絵師が描けば、まるで錦絵のように華やかになるのも、また艶絵の面白いところだ。
燕ノ舎の腕前は確かだった。挿絵でこれだけ見るものの身体を熱くさせる絵に、せんは久しぶりに出会った。
「いいねえ、こういう絵の仕様はわしに合う。おなごの胸の内を探りながら、絵で犯すなんぞ、絵師冥利につきるってもんだよ」
仕上げに、ふたりの間に桜の花びらを散らす。終いの丁に「梅鉢屋せん」を入れ、その横に、燕ノ舎自身の銘を書き記した。
羽を広げた燕の印に覚えがある。せんは帯に手をあてた。
「あたいのおとっつぁんは福井町で彫師をしていた」
「そうだってなあ」
「でも出版のお触書に反した咎で、板木の削り落としにあって。そのうち狂って死んじまったのさ」
「すべての悪法のなかでも一、二を争う所業だ」
読物や草双紙の最後の丁には、必ず奥付をつけるのが決まりごとだ。本屋がむやみやたらに不埒な本を作らないよう定められた触書きのひとつだが、そこに名を連ねる者たちはせんにとっては憧憬の的でもある。
「奥付は、本を作りあげた者たちの誇り。作り物というまやかしを、この現の世に混ぜあわせようとする抵抗の証だ。だから、あたいは奥付の名はすべて覚えている」
墨の香りが立つ燕の印にそっと指先をあてる。
「『倡門外妓譚』の絵師は、あんただったんだね」
描かれている場所は、話にそえば吉原大門ということになるが、絵をじっくりと見れば、御城の桜田堀の向こうに構える桜田門を示していることがわかる。
「仕事で武家屋敷に足を運ぶようになって、この目で絵のからくりに気がついた。桜田門の堀を挟んで両脇には、出羽米沢藩と安芸広島藩の江戸屋敷がある。その家紋が、それぞれ『竹に雀』と『鷹の羽』だった」
大門に刃をむけることがどういうことを意味しているのか。
「この本の作者の本意をくんで、あの絵をこしらえたのかい? それとも、あんたの意思でこんな恐ろしい武者絵に仕立てあげたのかい? あたいのおとっつぁんは、すべて知っていたけど、もし燕ノ舎が仕込んだからくりなら、あたいはあんたを許すことはできないよ」
「さあ、忘れたねえ。あの頃はおなごと逃げることしか考えておらんかったからなあ」
とぼける燕ノ舎の手首を握り返す。細い骨をつかんでいるようだ。
せんは帯にかくしている一冊の仮綴りの本を取り出した。
「お、そりゃあ……」
「板削りのとき、うちにあった本はたいてい焼かれちまったけど、この試し摺りだけは屋根裏に隠されていた。いまは肌身離さず持ち歩いている」
「仇を討つためか」
「おとっつぁんの最後の仕事だから」
「あめえなあ。こんなもん持っていることが知れたら、お前さん、敲きや江戸払いじゃあすまねえぜ」
「これは、あたいにとって、道しるべみたいなもんなんだ」
平治が死んだとき、まわりに舞っていた柔らかな光の蛍の景色は、せんの心にしっかりと刻まれている。
「あたいは裏道を歩きながら、蛍の残り火を後に残すための仕事をしているんだ。本を貸すだけじゃない。守るんだよ」
燕ノ舎はくくと笑い、せんの手をはがして筆をおいた。
いつの間にか、生々しい、しかしどこか夢を切り取ったような、錦絵にも劣らない美しい艶絵が完成していた。
「おめえさん、筆の運びはさすがだが、絵の才覚はねえみたいだな。幾人か安く仕事をしてくれる絵師を紹介してやるよ。また絵が必要になったら行くがいい」
「あんたは?」
燕ノ舎は静かに首を振った。
「最後にこんな匂い立つ絵を拵えることができたのは、『後れ毛平治』の引き合わせかもしれねえなあ」
せんが蔵を後にするとき、老絵師はじっと机にむかったままだった。
「またここに来ていいかい」
「つぎはおめえのホトを拝ませてもらうぜ」
「高くつくよ」
腕はだらりと脇に落ちたままだ。それでも肩が揺れて低く笑っているのが、舞いあがる埃越しに見えた。
蔵を出ると、母屋の縁にみすずが立っていた。ふたりで同時に空を見る。
雨は上がり、迷いのないひとすじの光があたりを照らしていた。塵を洗い流したあとの江戸は美しい。やがてみすずは、守り続けてきた蔵を一瞥し、店に戻っていった。
せんは深く頭を下げて、大筒屋を後にした。冷たい風が雫とともに屋根から吹き降り、せんの髪を乱した。言い訳ができた。風に体をなぶられただけだ。
裏木戸を出ると、見なれた男が心細げに立ちつくしていた。いつからそこにいたのか。全身雨にぬれそぼち、しおれながらくしゃみをしている。かごに入れた芋や南瓜も濡れていた。
「なあ、熊さんが姿を消したのは、おまえが襲われたことと関わりがあるのか?」
「さあ、どうなんだろうねえ」
「なんでもかんでもひとりで抱えんじゃねえよ。やっぱりひとりにしておくのは心配だ。そろそろうちに嫁にこいよ」
「もう襲われたりしないさ」
「ってえことはよお、やっぱり熊さんが……」
「もう終わったことだよ。ほら、なにぼんやりしてんだい。こんなひとけない所で野菜なんか売れるものかい。さっさと表通りに出て声張って振り歩いてきなよ」
登は昔からとろくさいけれど、声だけは、いつもどこにいても聞こえてくる。
せんがケツをたたこうとすると、登は軽々ととびすさり身をかわした。
「そういやあ、書き本はできたのか?」
「ああ。誰もが借りて読みたがる当代一の本が仕上がった」
「じゃあ、やっぱりうちに嫁にこいよ」
「ほんとうに阿呆だねえ、あんたは」
せんは笑いながら踵をかえした。まだ高い陽が路にそって照っている。せんはほんの少しのびた自分の影を踏みながら歩を進めた。
振り返ると、ぬれた笊をかついだ登が、お天道さまに顔をむけながら声をあげている。
「あんめーあんめー、初ものかぼちゃぁー」
雨上がりの空に吸いこまれていく登の声に背をおされ、せんは裏道をいく。いつもより貸本が軽い。ふと、辻で足をとめた。
さあ、これからどっちへいこうか。
ぬかるんだ裏道には、もう誰かの足跡がついている。その雨あとに、青い空が映りこんでいた。
「カブラもそうろう、いもやーいもー!」
威勢のいい声が、身に染む秋空に吸いこまれていった。
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