
文藝春秋電子版(現・文藝春秋PLUS)で連載されたジャーナリスト・秋山千佳氏による「ルポ男児の性被害」。追加取材を加え、今年7月に『沈黙を破る 「男子の性被害」の告発者たち』として一冊の本にまとまった。連載当時、驚異的なアクセス数を記録した塚原たえさんの記事から一部抜粋してお届けします。
◆◆◆
「和寛は死んでも構わない」
「周りの大人が厄介事に巻き込まれたくなくて手を差し伸べなかったのは、ジャニー喜多川氏の問題と一緒ですよね」
2023年9月。日の差さない貸会議室で、ある女性の回想に、私は頷いていた。
彼女のSNS上のアカウント名は「T.T」。横書きだったので泣いている顔文字だと、私だけでなく他のフォロワーも思っていただろう。
彼女が匿名発信している内容が、父親から受けた性虐待のことだったからだ。
取材というリアルの場に現れても、カメラマンがいる間はマスクを外さなかった。2人きりになると、押さえ込んできた過去が噴出するかのようにとめどなく語った。
同時代を生きる人に起きたとにわかに受け止めきれないほど凄惨な虐待だった。実際、受け止めることを放棄した大人たちによって虐待は黙殺され、裁判を起こすのも今となっては難しいと弁護士からは言われていた。

窓の外は彼女の暮らす街で、取材が終われば彼女は日常に戻る。今回の記事でも名前を出すのは難しいだろう。そう思いながら念のため確認すると、思わぬ言葉が返ってきた。
「いや、もう実名を出してもいいかなと思っています。父親が何のお咎(とが)めもなく普通のおじいちゃんとして生活し、普通にあの世へ行こうとしていることが許せない。裁判に持ち込める可能性がほぼゼロなのだとしたら、私の実名を出してでも、すべてを知ってもらうほうがいいのではないかという気がしています」
聞けば、マスクを着けて写真を撮られている間も、被害者である自分がこれ以上人目を忍ぶ必要はないのではないか、という葛藤が募っていたのだという。
「事実を隠して日陰を歩いていると、黙っているしかない自分が惨めになります。自分という人間が存在していない気持ちになるんです。私も、同じように苦しんだ弟もきっと」
こうして「T.T」は、本名の塚原たえとして、声を上げることになった。
2021年10月。当時49歳の塚原たえは、知人にいない「中村」姓の人物からの手紙を受け取った。相手の住所にも見覚えがない。
封を開けると、1枚の便箋が出てきた。
◆
前略
元気でいる事と思います
私も終活の年となり子供の相続意志確認したく
連絡をとりたいと思います
人でなしの親のせいで貧乏し皆気が狂ってしまいました
皆深い傷を負いました よく生きていてくれたと思います
◆
20年以上連絡を絶ってきた、当時71歳の実の父親からだった。なぜ今の住所がわかったのか。混乱、恐怖、怒り……体の震えが止まらなくなった。
3カ月後の2022年1月、たえは体調の落ち着いた日を選んで、便箋にあった番号へ電話をかけた。相続放棄の意向を伝えるため、そして弟の和寛(仮名)のことで重大な報告があった。
電話口で、たえは声に動揺を出さないようにしながら伝えた。
「和寛は、自殺したよ」
父親は、息子の死にまったくうろたえず、あっさり言った。
「和寛は死んでも構わないけど、たえちゃんが死ぬのは嫌だよ」
この電話からおよそ2年が経ち、たえは目を赤くして言った。
「和寛は死んでも構わない、という一言で、これまで隠してきた性虐待を明るみに出そうという気持ちに火がつきました。父親にとって、子どもたちはあくまで性の道具でしかない。あんたのせいで死んだんだよと……。私と同じ境遇で同じように苦しんだ弟が生きた証を残したいし、弟の代弁をできるとしたら私だけだと思っています」
早く楽になりたいな
たえの手元に、和寛の写真はわずかにしか残されていない。
「これは私が2歳、弟が1歳くらいですかね。いつも裸で撮られていて、寝ているところも多い。父親はこの頃からそういう対象として見ていたのかなと思います」
和寛はたえの1学年下だが、正確にいうと11カ月しか差がない。母親の産褥期(さんじょくき)が明けるかどうかという時期でも父親が性行為を強いたのだろう、とたえは見ている。
姉弟は山口県内で生まれ育ったが、たえには小学3年生以前の記憶があまりない。父親は長距離トラックの運転手をしていたが、その時期に仕事を辞めて家にいるようになり、母親が家計を担うようになった。
初めてたえが性虐待を受けたのはこの頃、9歳の時だ。父親から指や異物を膣(ちつ)に入れられるようになった。
身体的虐待も激化した。それは和寛に対しても同様だった。
屋外にある風呂に連れていかれ、“行水”と称して何十回と水の中に顔を沈められた。息ができず「苦しいな、早く楽になりたいな、このまま死ねたらいいのに」と考えたことが、たえの最も古い記憶の一つだ。
季節問わず、裸にされて屋外へ放り出されることもしばしばだった。
「当然、近所中に見られます。行水の時だって私たちの悲鳴が響き渡るわけです。それで通報してくれる人がいて、警察官が駆けつけることもありました。けれど父親が『しつけのためにやった』と言うと、警察官も『ほどほどに』で帰ってしまう。そんなことがしょっちゅうあったんですけど、当時の警察はそれ以上動こうとしませんでした」
近所の人は次第に、通報しても無駄だと学習したようだ。
和寛が小学3年生のある夕方のこと。父親から裸で後ろ手に縛られ、腰にロープを巻いて車の後部につながれ、父親の運転するその車に引きずられたことがあった。まだ明るい時間帯であり、近所の人たちも目にしたが、止めに入る者はいなかった。
「普通に考えたら、殺人行為じゃないですか。だけどそれすら誰も助けてくれなかったんです。『あの子かわいそうだよ、誰か助けてやりなよ』と言い合うだけで終わりました。あの父親は怖い、何をされるかわからないというイメージが周囲にも植え付けられていたのでしょう」

この年、和寛の担任だった男性教師が放課後に訪ねてきて「和寛君とたえさんを養子にしたい」と父親に申し出たことがあった。父親は腰を据えて話すことなく追い返した。たえは成人後、教師の連絡先を探し出してお礼を言ったことがある。地元では唯一、姉弟を助けようとしてくれた大人だったからだ。
同じ頃、東京で女優として成功している叔母がやってくる機会があり、「2人を養子にしたい」と言った。しかしこの時も父親は突っぱねた。
(第6章「弟は父の性虐待で死んだ」より)
秋山千佳(あきやま・ちか)
1980年生まれ。早稲田大学政治経済学部卒業後、朝日新聞社に記者として入社。大阪社会部、東京社会部などを経て、2013年に退社し、フリーのジャーナリストに。著書に『東大女子という生き方』(文春新書)、『実像 広島の「ばっちゃん」中本忠子の真実』(KADOKAWA)、『ルポ 保健室 子どもの貧困・虐待・性のリアル』(朝日新書)、『戸籍のない日本人』(双葉新書)。
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