武田勝頼はなぜ、圧倒的不利な戦いに挑んだのか? 令和の新解釈で再現する長篠・設楽原の戦い――中路啓太さん最新歴史小説『木霊の声 武田勝頼の設楽原』の冒頭を大公開
- 2025.07.24
- ためし読み
ジャンル : #歴史・時代小説
中路啓太さんによる待望の最新刊『木霊の声 武田勝頼の設楽原』が2025年7月24日に発売になりました。
本作は、戦国史上最も有名な“長篠・設楽原の戦い”から伝説と虚飾を排し、ドキュメンタリー・タッチで描く歴史小説です。
本作の魅力を皆さんにいち早く感じていただくべく、序章を無料公開します。
序
愛知県新城市の、田圃が広がるそのあたりは平地だが、北方へ目をやれば山地があり、そこから舌状台地がこちらに向かって張り出している。南方に振り返れば、東から西へと流れる豊川があり、さらにその先はまた山並みが見えた。その山並みと山並みに挟まれた、南北約三・三キロメートル(三十町)の平地の只中を、北から南へと、連吾川と呼ばれる、徒歩でも渡れる細流が通る。
連吾川の左右にはこれまた、小高い丘陵地が南北方向にいくつも並んでいるから、川沿いの田地はそれほど広いものではない。そして、このような複雑な地形のうちに開かれた田畑のさまこそ、我々の郷愁を誘う、典型的な美しき日本の風景と言ってよいのかもしれない。
だがそれにしても、筆者は驚きをもって「狭い場所だな」という印象を持たざるを得なかった。なぜならば、ここが戦国時代を代表する、大規模な戦いの一つが行われた古戦場であるからだ。
そこはかつて、三河国の設楽原と呼ばれた。天正三年五月二十一日(一五七五年六月二十九日)、織田信長、及び徳川家康の連合軍と、当時、最強を謳われた武田勝頼の軍の、彼我合わせて五万以上とも言われる大兵が、この地で激突し、織田・徳川方が大勝した「設楽原の戦い」の現場である。
この戦いは、一般には「長篠の戦い」という名で知られている。それは、武田勢と織田・徳川勢の戦いの当初の焦点が、設楽原から東方へ二十五キロメートル弱(六里余)離れた地に立つ長篠城であったことに由来する。すなわち、徳川方であった長篠城を、武田軍が包囲したことにより戦いははじまった。そして、その攻城戦が膠着する中、織田・徳川の救援軍が西方より到来し、武田軍がそれを迎え撃つべく設楽原に進出して、決戦が行われるにいたったのである。よって、人々がいわゆる「長篠の戦い」として想起するこの戦いの特色のほとんどは、実際には「設楽原の戦い」におけるものと言ってよいだろう。
この長篠・設楽原の合戦を彩る特色として語られてきたことと言えば、「鉄砲」と「騎馬」とのぶつかり合いにほかなるまい。長らく、織田・徳川軍は三千挺の鉄砲(火縄銃)を集め、それを連射するという、当時としては画期的な戦術をここで用いたと言われてきた。いっぽうの武田軍は、鉄砲という最新兵器の有効性を信じておらず、昔ながらの「騎馬戦術」に固執したとされる。すなわち、火縄銃は一発撃つと、次弾を込めるまでに時間がかかるから、そのあいだに馬を走らせれば、敵を蹴散らすことができると侮っていたというのだ。
その武田勢の織田・徳川勢に対する侮りぶりは、彼我の兵数の圧倒的な差からも指摘される。諸説あるが、武田勢が約一万二千人に過ぎなかったいっぽうで、織田・徳川勢は約三万八千人であったというのだ。武田勢は、自分たちの騎馬武者の強さを発揮すれば、二倍、三倍の敵など恐るるに足らずと思っていた、というのが通説である。
ところが、武略の天才、信長は、武田の騎馬隊を撃破するために、「三段撃ち」なる戦術を編み出したとされる。すなわち、まずは連吾川沿いに武田の騎馬軍団の突撃を食い止めるための柵(馬防柵)を立て、その背後に鉄砲の射手を三段に控えさせる。そして、一段目の者は射撃をすると後方に退いて弾込めを行い、そのあいだに二段目、三段目の者が順次入れ替わって撃つのである。三段目の者が射撃したときには、一段目の者は弾込めを終えており、射撃を行える態勢を整えているから、まるで連発式銃を千挺そろえているかのごとく、絶え間なく敵に弾雨を浴びせることができたというのだ。こうして、馬防柵を目がけて突撃する武田の騎馬兵たちはばたばたと斃れ、壊滅状態に陥ったと説明される。
現在、連吾川の西側には、江戸初期にこの戦いの様を描いたと伝わる『長篠合戦図屏風』を参考にして、馬防柵の一部が再現されている。それすら、設楽原を見渡す者に、この戦いの「伝説」を強く印象づける役割を果たしていると言えるだろう。
しかしながら、歴戦の武田家の将士が、武器としての鉄砲の有用性に気づいていなかったとは考えにくい。実際、勝頼の父、信玄の時代から武田軍が戦場において、さかんに鉄砲を用いていたことは、諸史料から明らかである。もちろん、織田家のほうが、交易の中心地や、鉄砲の産地を多く支配下に置いており、鉄砲や弾薬、弾丸などを集めやすかったとはいえるだろうが、武田軍が鉄砲を軽視していたというのは事実ではない。
また、この当時に「騎馬戦術」なるものがあったかどうかということについても、多くの研究者から疑問が呈せられている。たとえば、かつて武田家の本拠であった、山梨県甲府市の躑躅ヶ崎館跡の発掘調査において、戦国期のものと思われる馬の骨が発見されているが、背の高さは百二十センチくらいに過ぎない。葬られ方が丁重であるため、子馬や育ちの悪い馬であったとは考えにくく、身分の高い人物が大切にしていた、当時の「名馬」と推測されるものだ。もちろん、そのような小さな馬であっても、軍の機動性を高められるわけで、当時においても戦場で馬が重宝されたことは間違いないだろう。けれども、馬に乗って突撃をかけるような戦術が戦国期に主流であったかどうかは疑わしい。しかも、設楽原の戦いが行われたのは梅雨時であり、前日まで雨が降っていて、川辺の戦場はぬかるんでいたと想定される。いかに騎馬の巧者であっても、馬を縦横に疾駆させて戦うことは容易ではなかったはずだ。「騎馬隊」なるものをもって組織的に突進し、柵を結いまわした敵陣地にぶつかるような戦い方ができただろうか。
また当時、ヨーロッパから渡来した宣教師は、日本の騎馬武者は敵前で馬を下りてから戦う、との記録を残している。このことからしても、設楽原の戦いを「旧式の騎馬戦術」が「新式の鉄砲戦術」に敗れた戦いと捉えることには無理があると言わねばならないのだ。
さらに、織田信長が用意した「三千挺」の鉄砲についても、近年では疑いの目が向けられている。実際には千挺であったのではないかとか、いや五百挺程度であったとか、中には実数はともかくとして、武田軍が所持していた鉄砲の数と織田・徳川軍が所持していたそれとは、さほど差がなかったのではないかという説もある。
これらの疑義には、諸記録の写本の考証を根拠とするものももちろんあるが、設楽原古戦場の発掘調査を根拠とするものもある。三千挺の鉄砲を使って、何時間にもわたり連射がなされたにしては、出土する弾丸があまりに少ないと言うのだ。これには、「いや、鉛玉というのは戦国期には貴重品であったから、戦に参加していた士卒や地元の百姓が戦後に拾い集めたのではないか」という反論もなされているが。
鉄砲の数はともかく、「三段撃ち」についてもまた、専門家から疑義が呈せられている。火縄銃に精通する人々が三段撃ちについて実験してみても、そううまくはいかないというのだ。そもそもが、この「三段撃ち」の話は、設楽原での合戦からそうとう時がたった江戸前期に記された、小瀬甫庵の『信長記』に基づいている。それ以前には、記録はまったく存在しない。
伝説的に語られてきたことは怪しい、と主張する声は、これまでも多くあった。けれども、怪しい話もひとたび「定説」となってしまうと、なかなか動かしがたいものとなってしまう。観光パンフレット等の説明ばかりか、学校で用いられる教科書においても、この戦いは、先駆者信長が、鉄砲戦術を用いて新しい時代を切り開いたものと説明されつづけ、それ以外の説が受け入れられる余地はどんどん失われてゆく。
とりわけ、娯楽性を追求する講談、小説、漫画、映像作品などになると、信長の天才性は大袈裟に顕彰されて描かれ、対照的に勝頼は、名将として讃えられる信玄とは似ても似つかない、度し難い愚者として描かれるからだ。そして、勝頼は傀儡師に操られる人形のごとく、信長の計略にまんまと嵌まり、敗北するのである。それはあたかも、勝負は戦いがはじまるはるか以前に決まっていたかのようだ。
だが、どのようなささいな戦いであっても、勝負は将の賢愚によって簡単に決するものではない。戦局は刻々と変わっていくし、その都度の、人々の情勢分析や、決断の積み重ねが複雑にからみあった上で決着するものであるはずだ。
そしてそもそも、人の賢愚もまた、簡単に判別できる類のものではあるまい。歴史は勝者によって書かれる、と言うが、敗者は愚かで惨めに描かれるのが常である。そうした記録に触れる後代の者たちも、強く賢い者への憧れから、勝者に自己を投影し、敗者を嗤って、日常の憂さを晴らそうとするわけだ。その結果として、怪しい伝説は確乎と根づいていくのである。
設楽原古戦場の状況は、戦いの当時とは大きく変わっている。高速道路をはじめとする近代的な道路に囲まれ、また、様々な企業の大きな工場や学校なども作られた。もちろん、当時にはなかった多くの民家も立ち並んでいる。連吾川の東側には、広い駐車場を持つ設楽原歴史資料館も立つ。火縄銃をはじめとする当時の武具や、諸将の布陣を伝える絵図などを見ることができる施設である。
古戦場を見渡せるようにとの配慮からか、資料館の屋上は開放されているものの、そこへあがってみても、当時の将兵が見た光景はまるでわからなかった。なぜならば、両軍の諸隊が陣を敷いたとされる丘は、後代の植林によるものと思われる高い樹木に覆われているからだ。筆者は資料館だけでなく、古戦場周辺を移動しつつ、いくつもの高所を訪れてみたが、やはりどこも木々が鬱蒼と茂るばかりで、当時の戦いの全貌を想起するに相応しい眺望を得られはしなかった。ただ、連吾川沿いの田地だけが、当時の状況をわずかにいまに伝えていると言えるのだろうが、そののどかな様を眺めていても、数万の大軍がぶつかり合った状況を思い浮かべることは、なかなかに難しく感じられた。
だいたい、なぜ別の場所ではなく、この設楽原が両軍の決戦場になったのだろうか。信長が馬防柵を立て、大量の鉄砲を使った画期的な戦術を採用したとしても、なぜ、武田家はそこへ攻めかからなければならなかったのだろうか。かりに当初は織田・徳川軍を侮っていたとしても、前線部隊が分の悪い戦いをしていると見れば、突撃を中止し、撤退すればよかったではないか。なぜ、いつまでも敵陣に対する突撃をやめず、信玄の時代以来の主立った諸将がことごとく戦死するような戦い方をしなければならなかったのか。どれほど勝頼が愚物であろうと、そのことだけをもって、以上の疑問の答えとするには無理があると言わなければなるまい。
あのとき、いったい何が行われていたのだろうか。勝頼や信長、家康は、あるいは彼らの部下たちは、何を思い、どのような決断を下したのだろうか。設楽原の戦場の真相はどのようなものだったのだろうか。
それを語るために、まずは武田勝頼の父、信玄が存命していたころに戻ろうと思う。すなわち、勝頼が信玄の帷幕の将の一人にすぎなかった時代である。
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