映画『教皇選挙』のヒットに続き、フランシスコ葬儀の場でのトランプとゼレンスキーの会談、ヴァンス米副大統領を批判するレオ14世のXでの発言など、国際政治とのクロスにおいてもローマ教皇の存在感が注目を集めている。
学者から転身したベネディクト16世、世界の分断に橋をかけようと奮闘したフランシスコ、そして19世紀末のレオ13世の名を引き継ぐレオ14世――『聖書』に登場するイエスの使徒ペトロ以降、2000年以上連綿とバトンが受け継がれてきたローマ教皇とはいかなる存在か。混迷をきわめる国際政治に一石は投じられるのか?
トマス・アクィナスの研究者であり神学者・哲学者の著者が、フランシスコの遺産とともに綴る現代ローマ教皇論『ローマ教皇 伝統と革新のダイナミズム』(文春新書)より、一部抜粋してお届けする。
教皇フランシスコとの「遭遇」
私は、一度だけ、教皇フランシスコと顔を合わせたことがある。教皇が亡くなるほぼ一年前に、教皇が住居としていたバチカンのゲストハウスである「聖マルタの家(サンタ・マルタ館)」においてであった。
西洋中世の哲学者・神学者であるトマス・アクィナスを一番の専門としている私は、トマス没後750周年を祈念してバチカンの社会科学アカデミーによって主催されたワークショップに招待され、「聖マルタの家」の一室に宿泊していた。このゲストハウスは、教皇選挙に選挙権を持つ枢機卿たちが宿泊することで有名である。ここが、教皇フランシスコの住まいとしているものだということは知っていたが、その施設のどこに、どのようにして教皇が住んでいるかということは、知る由もなかった。

ある晩、夕食を取るために、いつものように「聖マルタの家」の食堂に入り、ワークショップ関係者の座っているテーブルへと向かっていた私は、簡素な白い服を着た人たちが食事をしているテーブルが通り道にあることに気づき、ふとそちらに目をやると、様々な写真や画面を通して馴染んでいた教皇フランシスコの横顔がそこにあった。いくらなんでも教皇が何の警備もなくそんなところに座っているはずはない、似ている人であるか、見間違いだろうと思いつつも、歩きながら食い入るようにその人物を見つめていた私の方に、その人物が顔を向けてきた。間違いなく、教皇その人であった。距離は十メートルもない。そちらに近づいて声をかけたりしてもよいものか迷っていた私に、食堂の係の人が近寄って穏やかに話しかけ、「あちらのテーブルです」と述べてきた。いつもはそのように誘導されることはない。間違いなく教皇だと確信し、係の人の穏やかな態度を見る限り、教皇に話しかけることが無理ではないだろうと思いつつも、不思議な抑制の心が働き、私は静かに自分のテーブルへと向かい、同席している研究者の人たちにも、教皇がいまこの場にいるということについては、何も告げなかった。

一瞬の出来事ではあったが、私とはっきりと目を合わせた教皇の姿がいまでも目に焼き付いている。「橋を架ける」ことをキーワードにしていた教皇フランシスコ。まじまじと見つめている見知らぬ私の視線を感じ取り、無視することなく、視線で応えてくださるその姿に、私はこの教皇の骨の髄まで沁み通っている開かれた精神を感じ取った。いつかこの人についての書物を書きたいと思った。「カトリック」というものが本格的に理解されることの多くない我が国において、カトリック思想の研究を専門としている私が、残された人生の時間の中で必ず成し遂げたいことのひとつがここにあると確信した出来事であった。
教皇フランシスコの逝去――映画と地続きになった「教皇選挙」
その教皇フランシスコは、2025年4月21日、復活祭の翌日の月曜日に生涯を閉じた。前日に復活祭のメッセージを送るなど、最後の最後まで教皇としての職務を全うしての最期であった。
それから新教皇レオ十四世の就任が決まり、カトリック教会の新たな体制が動き始めるまでの1ヶ月弱は、新聞、テレビ、ラジオなどからひっきりなしに取材を受けるという、私の人生始まって以来の慌ただしい時間を過ごした。教皇フランシスコについて、教皇選挙について、カトリック教会の今後について、様々なインタビューを受けたり、コメントを寄せたり、テレビに生出演したりする機会を与えられるなかで、普段以上にバチカンの最新情報に触れる機会も増えていった。
時を同じくして、映画の『教皇選挙』が日本でも公開され、大きな話題となっていた。映画の『教皇選挙』と現実の「教皇選挙」が不思議な仕方で地続きとなり、世の中の「教皇」に対する関心がいつになく盛り上がっているこのタイミングで、亡くなった教皇フランシスコの、そして新たに教皇となったレオ十四世の言葉を多くの人に届けたい。そうした思いを込めて執筆したのが本書である。

我が国のマスメディアで「教皇」が取り上げられるさいには、どうしても宗教色を脱色したような仕方で取り上げられがちである。教皇フランシスコが来日したさいに、多くのメディアが「核兵器」や「原発」や「死刑」といった問題に焦点を当てながら報道していたように。
たしかに、多くの人がキリスト教についての深い理解を持ってはおらず、キリスト教的な事柄についての関心もさほど持ってはいないかもしれない現代日本において、多くの人が視聴するテレビ番組において「教皇」を取り上げようとする場合には、宗教色を脱色して、或る種の普遍的なメッセージの語り手として取り上げるのが無難なやり方なのかもしれない。
だが、当然ながら、そのようなやり方では、「宗教者」である教皇の全体像を捉えることはできない。また、一見教皇が一般的なメッセージを語っているように見える場合であっても、その背後には必ず、キリスト教的なヴィジョンがある。そのキリスト教的なヴィジョンをある程度理解しておいてはじめて、教皇が語っている「普遍的」なメッセージも心の意味で理解することができるのである。

「キリストの代理人」とされる教皇は、優秀なスタッフや、キリスト教に千年の伝統に支えられて、日々起きる様々な出来事に即しながらキリスト教の根本的なメッセージを語る存在であり、キリスト教について我々が理解を深めるための絶好の入口になる存在でもある。キリスト教信仰に積極的な関心がある人であれ、ビジネスなどのためにキリスト教のことをとりあえず押さえておきたいという人であれ、キリスト教に反感を持っている人であれ、教皇の言葉に触れることは、キリスト教というものを理解するためのまたとない入口になる。
そのような観点から、亡くなった教皇フランシスコ、新教皇レオ十四世、教皇フランシスコの前任者であり、現代を代表する神学者でもあったベネディクト十六世の言葉を深く読み解いていきたい。
〈「J・D・ヴァンスは間違っている」ヴァンス米副大統領に真っ向から反論した新教皇レオ14世。排外主義的な流れにカトリックの伝統が待ったをかける〉へ続く