村木嵐さんの新刊『雀ちょっちょ』の主人公は、文筆の才能を認められ、狂歌の名手として江戸にその名を轟かせた大田南畝。平賀源内や蔦屋重三郎といった文化人たちが活躍し、出版文化が隆盛を極めた田沼時代に、狂歌師として人気を博した南畝だが、後年はその筆を折り、幕府の役人として生きる道を選んだ。南畝の人生の大きな決断の裏にあった、知られざる家族への思いとは――。
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「白河の清きに魚もすみかねて…」の作者はいったい?
――『雀ちょっちょ』の主人公は、狂歌師として江戸で名を馳せた大田南畝ですが、なぜこの人物に着目されたのでしょうか。
村木: 南畝に興味を持ったのは、以前、田沼意次を主人公にした『またうど』を書いていた頃でした。史料を調べている中で、田沼意次の息子である意知(おきとも)が江戸城内で斬りつけられた事件の記録を、幕府の役人だった南畝が書き残しているんです。
その記録が非常に読みやすくて、完璧な形で残っていて……誰かが誰かを斬った後、その人がどこをどういうふうに逃げていったか、といったことが、てんてんと点線で示してあったりして。すごく現代的なルポルタージュのようで、「この人はすごいな」と感銘を受けました。そこから南畝の狂歌などを本格的に読むようになり、あっという間にその世界に惹かれていきました。
――大田南畝といえば、田沼意次が失脚し、松平定信が老中になった時代に詠まれたとされる「白河の清きに魚もすみかねて もとの濁りの田沼こひしき」という、教科書にも載っている狂歌の作者ではないかと言われています。
村木: 私もずっと、この歌は誰が詠んだのだろうと興味を持っていました。今回、その点についても私なりの回答というか、「こうじゃないか」と思うことを作中で書いています。ただ、南畝の全集などをずっと読んでいると、彼は政治向きの歌というのは基本的に詠んでいないんです。ですから、もしこの歌を詠んだとしても、絶対に自分の名前は、表には出さなかっただろうとは思っています。
――この歌が詠まれた時代背景は、村木さんが『まいまいつぶろ』や『またうど』でも描かれていて、ご自身でも非常に関心をお持ちですよね。
村木: ええ、とても好きな面白い時代です。現代とリンクするところも多いので、ずっと興味を持っています。一般的にいわれてきたように、田沼意次が賄賂をもらっていたとか、送っていたとか、実際のところは分かりません。ただ、意次がやったこと、そしてその後の松平定信がやったこと、そうした事実を比較して色々と考えていきたい、という思いがこの作品にも繋がっています。
田沼政治の魅力を挙げるとすれば、それは「自由」だったということに尽きると思います。硬直的ではなく、ある程度はなんでも自由に、新しいことにどんどん挑戦させた。頭ごなしに「これはダメだ」とは言わずに、北海道の開拓を考えたり、外国との交易を模索したり、今でいう銀行のような新しい金融の仕組みを試そうとしたり、そういったところがすごい人だったなと思わせる部分ですね。
流行語大賞やサラリーマン川柳のように狂歌を
――『雀ちょっちょ』を読んでいると、江戸の人々の洒落や頓知に驚かされます。我々が想像する以上に学問が盛んで、庶民に至るまで学識が高い人が大勢いたことが伝わってきました。
村木: 現代の私たちが新聞や雑誌を読んだり、テレビでニュースを見たりするのと同じような感覚だったのではないでしょうか。「勉強しよう」と意気込むのではなく、ごく自然に情報に触れていたのだと思います。狂歌というのは、和歌の形式である五・七・五・七・七を踏襲しつつ、風刺や皮肉、滑稽さを盛り込んだもので、俗語や言葉遊びを多用するのが特徴です。今でいうと「今年の流行語大賞」とか「サラリーマン川柳」みたいな感覚に近いかもしれません。
テレビも何もない時代ですから、人々が集まってお酒を飲むだけでなく、何か気の利いたことを言って場を盛り上げる、という娯楽があったのでしょう。狂歌があったことで、彼らの夜はすごく楽しかっただろうなと思います。
――漢文の素養も非常に高いですよね。会話の中に当たり前のように、中国の杜甫や李白が出てきたり。
村木: 当時の人々の漢文の素養は、私たちの想像をはるかに超えていたと思います。庶民でもかなりの知識がありました。今から見ると非常に難しく感じますが、彼らにとっては、それくらいの教養はごく普通で、楽しむための素地が皆にあったのでしょうね。狂歌というと難しく聞こえるかもしれませんが、江戸の人々が日々の「やってられないな」という気持ちを笑いに変えて楽しんでいた、とても身近なものだったということが伝われば嬉しいです。
多くの名をもつ天才が、いちばん守りたかったもの
――さらに本書の最大の読みどころは、南畝とその家族の物語として全編が描かれている点だと思いますが、なぜこのようなアプローチをされたのでしょうか。
村木: 南畝の人生を調べていくと、大きな転換点がいくつかあります。その中でも最も大きなものが、狂歌師としての名声を捨て、幕府の役人になるための登用試験を受けたことです。なぜ彼はそんな選択をしたのか、ということが私の中でずっと解けない謎でした。
すでに文人として誰もが認める地位を確立していたわけですから、今さら役人として出世する必要はなかった。しかも、役人になったところで、ひたすら書類を書き写すような、つまらなそうな仕事が待っていることは目に見えていたはずです。それでも幕吏の道を選んだ。その理由を考えた時、どうしても息子の存在に行き着きました。
作中にある大田の家に時折現れるという「魔」の萌芽、つまり息子さんの病気については、南畝自身が史料に書き残していて、これは史実です。また、親族にも同じようなことがあったようです。当時の御家人の暮らしは決して楽ではなかったでしょうし、息子に少しでも安定した暮らしを、毎年決まったお米がもらえるような暮らしを続けさせてやりたかった。それが南畝の偽らざる親心だったのではないかと、私は考えています。
――大田南畝は、蜀山人(しょくさんじん)など、非常に多くの名前、ペンネームを持っていたことでも知られていますね。
村木: ええ、私も長いこと、3、4人くらい全くの別人だと思っていた人が、全部、大田南畝だったということがあって驚きました(笑)。作中でも、塙保己一が「あなたは一つの名前だけで収まらないだろう」と予言する場面がありますが、本当にそうだったのだろうと思います。それだけ多才で、一つの枠にはまらない人物だった。だからこそ、この物語では、彼が幼い頃からお父さんに呼ばれていた「直次郎」という名前を大切にしました。いくつもの顔を持つ彼が、ただ一人の「直次郎」として家族と向き合う物語を描きたかったんです。
そして何より天才と呼ばれた南畝が、様々なことを成し遂げたようで、結局いちばん守りたかったのは息子だった、という家族の物語として読んでいただけたら。「文化か」「家族か」、その葛藤の末に彼が選んだ道を、見届けていただければ幸いです。








